Vol.81 2011. 卯月
四季の風 ―乗って、向かって、横からうけて―」
第16回 (2011年4月8日)
 

V  私の指導と反省


  (5) 私を変えたもの ―その2―「転勤」

  
 「転勤は最高の研修である」と言われる。
 そう言われても、嫌なことに変わりはない。
 何故か。
 まず思いつくことは「面倒だ」と言うこと。そして、住み慣れたともいえる職場環境や仲間からの別れもある。
 新しい職場に対する「不安」も転勤に嫌悪感を抱かせる一つである。
 ある程度の情報は事前に知ることは可能であろうが、実際に行ってみないとわからないことがほとんどである。自家用車で通勤することになれば、通勤経路中の危険個所などわからない。転勤当初は事故にあう確率は大きい、と考えてもまず間違いない。このような不安は大きく、ストレスも大変なものとなる。
 我々運動部の指導者は「手塩にかけた子どもたちと別れる」ことが最大の悩みだ。親子同然の感情で毎日接してきた子どもたちとの別れは一時的なものではない。なぜなら、シーズンが始まれば、ついこの間まで一緒に活動してきた子どもたちとライバル関係となり戦わなければならないからだ。ついこの間まで指導してきた子どもたちも新顧問の下で活動が始まっていれば、余計な口出しはできない。この感情は味わったものでしか分からないだろう。


                                  【佐野の地】
 私の最初の赴任校は佐野商業高校定時制であったが、陸上競技部の主な活動拠点は佐野高校であった。(1974年)
したがって一年で佐野高校定時制勤務を命じられたときは「便利になるな」「母校で教えられるな」といった感情しかわかなかった。

 その後全日制に移るまで(19978年)の3年間は現役と指導者のはざまであったが、結果的には指導者としての基礎固めとなった。

 それから12年間佐野高校で我儘を言わせていただいた。


                                  【田沼高校】
 そのようなことから、事実上私にとっての最初の転勤は田沼高校へ転勤した1990年だったのかもしれない。
 
 田沼高校に転勤を命ぜられた私が、佐野高校に別れを告げる前にやらなければならないことは、定時制時代も含めた15年間の後片付けだった。教官室にも体育館倉庫にも山と積まれた書類や買い置きのユニフォームなどの整理である。私の後任は期限付講師で陸上競技の体験は全くないので、練習内容に関しては引き継ぎたくともうまく引き継げなかった。幸い田沼高校は佐野高校と自宅の中間に位置する学校であったため、転勤後時間をかけてゆっくりと引き継ぎをした。それは佐野高校の部員を引き続き私が指導するという暗黙の了解もあったからである。
 転勤してしばらくの間は佐野高校の部員も田沼高校に練習に来て、合同練習といった雰囲気があったが、5月の高校総体前から大野功二以外は現れなくなった。聞けば「行ってはいけない」と言われたらしい。それでも大野は毎日やってきたが…。
 この話を聞いた時は愕然としたが、かえってそのことで「大野を卒業させたら陸上競技をやめてもよい」という覚悟が浮かんでいた。

 田沼高校は教員として当たり前のことを当たり前のようにやることを教えてくれた。机上の研修では絶対に理解できない日々の連続であった。


                                  【筑波大学】
 田沼高校ではおまけがある。
 転勤後2年目に大野が日本ジュニア200mで優勝し、そのおかげで私もアメリカ遠征に行くことができた。そのことをきっかけに「陸上競技以外のことをしてみたい。もう少し体育・スポーツの勉強をして自己を高めたい」と内地留学を希望した。
 
 願いがかなって筑波大学に一年間単身で留学することになった。大慌てで手続きを取り、西藤先生の助けを借りて宿舎も確保し、いよいよ書類を提出に大学に出向いた。
 周りは自分の子供と年齢が変わらないような学生ばかり。その中に、何もわからないどこかの親爺が紛れ込んだような気分を味わった。
 私が手続きにもたもたしていると学生は平気で割り込んできた。それも何人もの学生が、である。筑波、筑波と草木がなびいていたころであったが、「筑波大学と言っても、常識知らずの頭でっかちの学生がゴロゴロしている」と思った。
 
 そうして自分の学生時代を思い出していた。
 切符を買うために並んでいた列に割り込んできた、見知らぬ(社会的には地位ありそうに見えた)オヤジがいた。
 その時私は「あなたは忙しいのかもしれないが自分は順番を待っている。あなたのような方は何をしても世間は許すのかもしれないが、割り込みはやめてくれ。あなたのような感覚の人間が戦争を引き起こしたのではないか」と注意した。当然そのオヤジは「何貴様・・・・(何を言われたか覚えていない)と」逆切れし私にかみついた。
 今、それが全く逆のことが目の前で起こっている。何とも言えぬストレスが沈殿した。
 
 どこでどのように手続きして良いかわからない。学生に聞いても他人事。何度か受付場所を変えながらたどり着いたところに、学生時代に世話になっていたKという事務員がいた。「なんだ、そういうときは連絡しろよ」と言われたが、連絡のしようがあるはずがない。ただただ苦笑するしかなかった。
 
 筑波に一年間いてこの日のストレスは最高のものであった。同時に、これからの若者、そして未来に危機を感じた最初の出来事でもあった。
 
 筑波の一年間はまさしく「実践そして研究」にあけくれた。
 私は「学習指導要領」の研究に行ったわけだが、途中から陸上競技の体系的究明について興味がわいたことから、「学校体育に関する諸問題の検討」「競技力向上に関する諸問題の検討」「健康や体力と言う言葉の概念に関する諸問題の検討」の3点の研究課題に絞り込み、最終的には「学習指導要領における陸上競技領域、体操領域、体育理論、科目・保健の目標及び部活動との関連性の検討」をすることで初期の目標に到達することができた。

 この時、学生とは、「学ぶことが生きること」なのか「生きることが学ぶこと」なのかと悟りを開くような日々を送った。本当に充実した一年間であった。
 このまま筑波に残れればと思ったが、筑波には転勤したわけではなかった。最高の研修ではあったが、一年後再び田沼高校に戻らざるを得なかった。当り前の話であるが…。


                               【再び田沼高校】
 一年ぶりに学校現場に戻って驚いた。
 「わかる」「見える」「浮かぶ」のである。
 学校のシステムがわかり、生徒の動きや考えが見え、何をしたらよいかあらゆる場面でアイディアが次々と浮かぶようになったのである。
 なにしろ「まずは実践してみる」そして「必ず反省する」さらに「反省点を生かせるように考え再度実践する」という流れが定着した。それも意識など必要としなかった。何でもかんでも浮かんでくる、という貴重な体験をした。
 
 留学も終わり5年がたったころには、「残りの教員生活でもうひと花咲かせてやるか」といった助平根性が頭をもたげるようになってきた。もうひと花とは「陸上競技でやり残したことをやってみたい」ということである。具体的には、インターハイの総合優勝と全国高校駅伝出場である。
 そうと決まればやはり中途半端ではだめだ。地元の子どもたちだけでは間に合わない。そのためにも合宿生活を再興しようと決断し、残り勤務年数を数え計画を立てはじめた。
 

                            【栃木県教育委員会】
 栃木県には3月に内々示なるものがある。
 まさかそのようなことがあるはずがないと思って一人教官室にいた私に、校長から校内電話があった。
 「ちょっと校長室へ来てください」
 (なんだろう、俺悪いことをしたのかな)などと思いながら校長室に行くと「転勤です」とのこと。(うそだろう)と思っていると、
 「実は・・・」と始まり、思わぬ異動先を言われた。
 「少し待ってくださいますか。いろいろと相談したい者もいますので」との返答に「相談なしです。この場で即答してください」ときた。
 結局返事は曖昧だった。曖昧だったが了解したのだろう。しかし、辞職も真剣に考えた。
 教員生活最後の夢が大きく膨らんだのに、あっという間に空気が漏れ始めていた。
 事実、私は数日間職探しに走り、教頭に「辞職」の相談をしていた。
 
 そうして、私の心の中は一人「すったもんだしたあげく」転勤せざるをえなくなった。
 異動先は「栃木県教育委員会事務局保健体育課学校保健係」という、現場の教員からすれば、聞いただけで気持ちが暗くなるようなところであった。
 

 人生って面白いもの。ここでタラレバ的問題で暗闇の話題から抜け出しましょう。
 
 そのころ合宿所を再興し私は競技力向上にありったけの力を注いできたとします。
 私にとって教員最後のインターハイは(震災からの復興がかなえば)北上となったわけですが、もしも、もしもですよ、黒澤尻北高校の高須君そして千田先生と100m決勝をかけて準決勝で田沼高校の選手が闘うことになったなら、サブトラックで私は千田先生と仲良く談笑していたでしょうか?
 答えは、「知り合いになっていなかったから、互いに『誰この人は?』で挨拶はなかった。」

 

 閑話休題。
 県教委。ここではいろいろなことをやった。(やらされた?)
 まずは、学校保健で性教育(こちらの分野では検討委員会を立ち上げリーフレットを作成し、成果をあげることができたと自負している)、ついで薬物乱用防止教育(こちらの分野では国の委員としてプロ野球、Jリーグ、高野連、日体協、JOCなどの代表といったそうそうたるメンバーと一緒に全国教育委員会代表委員として年に数回の会議に出席していた)などを担当したが、正直つらいものがあった。
 私の心は「とにかくグラゥンドに出たい!」という気持ちに支配されていた。
 
 学校安全では交通安全教育を中心に防災安全、生活安全なども担当した。今回の震災ではその経験がずいぶん役立った。
 それだけではない。何と、学校給食もやっている。
 食育を含めた生活習慣の確立に関して徹底的にやらせてもらったが、これは私の得意分野だったこともあり少しも苦にはならなかった。
 
 ここまで5年経過。6年目に学校体育に内部異動となる。
 ここで児童生徒の体力について担当した時に内地留学の成果を初めて発揮できた。
 平均的なラインを囲む筒の外に出てはいけない。一歩先を歩んではいけない。能ある鷹は爪を切っておかなければならない。県教委というところはそういうところなのだ。
 
 そうして1年後には生涯スポーツ担当に内部異動である。
 やっていることは総合型地域スポーツクラブの設立やスポレク祭関連の仕事だった。ずいぶん現場と乖離しているものだと、毎日のように思っていた。余談だが、そのころ準備の始まったスポレク祭が今年栃木で開催される。
 
 「できる!」「やってみよう!」
 このころ、やるせない思いを募らせていた私は教え子に訴えた。
 陸上競技を中心とした総合型地域スポーツクラブの設立である。
 (県内の立ち上げを推進するなら自ら立ち上げてみたほうがわかりやすいのではないか)の思いで一気に立ち上げた。佐野SAC Circle-JUVY8の誕生はこの時であった。
 
 試練?再び。1年後には健康福利課に内部異動である。正直、俺は便利屋か?と思った。
 ここでは医師会、歯科医師会、薬剤師会や学校給食会との調整役として生き抜いた。気を使う仕事であったが、そのころ可愛がっていただいた医師会の太田先生は現在県医師会の会長であり、私の主治医にもなっていただいている。
 人間関係の構築に関してずいぶん勉強になった。
 
 そんなこんなで2年もいた。
 「もう行政は勘弁してほしい」と口に出したいのを我慢していた私を待っていたのは、財団法人栃木県体育協会事務局長兼常務理事の肩書であった。行政10年目である。
 無理やり(?)肩章を縫いこまれた感がしないでもないが、有無を言わさずの派遣に従った。少しは面白い仕事に就けるのかな、と期待をしながらの就任であった。
 
 全競技団体の統括機関とは知っていたが、競技力向上は統括機関が行えるものではないことも思い知らされた。
 ただし、一年間の在籍でありながら運のよい私は1980年開催の栃の葉国体以来の国体における天皇杯最高順位を獲得することができた。
 「栃木の競技力を立て直してくれ」と付け加えながら教育長から内示をいただいた時のことを思い出すと、私の運も少しは役に立ったのかもしれない。
 

 再びタラレバ的な話で恐縮である。

 もしも、県教委に配属されていなければJUVYはできていただろうか。
 現場を離れ、県教委に勤務していた時代にもJUVYの前身「司若会」総督として、また(新里敏幸の明治大学コーチ就任にともない)明治大学競走部コーチアシスタントとして、多くの競技者を指導していた。
 しかし、JUVYが設立されていなければ齋藤仁志との出会いはあったのだろうか。齋藤の北京やベルリンはあったのだろうか。
 おそらく、吉永一行や品田直宏は縁がないわけではないから、競技場で会えば軽く挨拶程度はしたと思うが、これほどまでの付き合いができただろうか。
 「神に使っていただく」という思いで、本気で事を起こせば不思議な出会いは続々と現れるようだ。

 

                                 【そして今思う】
 校長になって3年が終わった。
 その3年の間、毎年3学期は私にとって嫌な時期であった。なぜならば転勤の時期だからである。
 
 この年になった私は言いたい。
 「いやだいやだ」と思う気持ち、言う気持ちはよくわかる。
 それでも私は言いたい。
 「転勤は学知、験智が膨らむ最高の場を与えられるものだ。人間一方通行的なモノの見方で的確な判断など出来るはずがない。だからこそ大きくなっていく自分を思い、素直に転勤を喜ぶべきだ。人間万事塞翁が馬である。ブリンカーをつけた競走馬になってはいけない。」
 
 今だからこそ言える。
 私に「田沼と筑波と宇都宮に行け」と命じた神の声に感謝するが恨みは全くない。
 そう、いろいろなところでの体験が、つたないながらも学習知と体験智に霊感的要素が加わり多角的視野で物を見ることができるようになった、と信じている。
 
 新たな視野を体内で醸成することが残された人生の課題であるし、新たな視野への準備が始まっていることが自分でもわかる。
 
 ここまで書いてきて、宮古工業高校の小池先生の気持ちを思わずにはいられない。
 先生は盛岡南高校から宮古工業高校に転勤して1年とたたずして今回の震災を受けた。
 話すことはいっぱいある。しかし、正しく伝わるか自信はない。
 そんな時、天命鋳物師の若林さんと飲み話す機会があった。そこで多くの言霊をいただいた。ここにその時の会話の内容を書くつもりはさらさらない。
 それでも、私の心の内では震災や原発に対する考えはある程度整理がついた。
 いつでも小池先生と話ができる勇気も湧いてきた。
 心の底まで見られても構わない覚悟もできた。
 だから、小池先生との再会を至上の楽しみにしている自分が見える。
 待ってるぜ!小池先生!!そして両千田先生!!!
 


                    ◆

 
 突然の報告でありますが、「JGMの四季の風」は今回が最終回となりました。
 
 佐野SAC Circle-JUVY8 は4月2日付にて解散し、佐野スパルタ倶楽部と連携した陸上競技クラブ 佐野SAC JUVY Track Club(略称:SJTC、2011年1月1日設立済)に移管することになりました。
 上部団体的組織の佐野スパルタ倶楽部会長の私がJUVY TCのGMを兼ねるのは常識的に考えれば好ましくないとの理由からです。
 その結果JUVY TCとしてはGM制を廃止することになりました。
 在任中は、公私にわたり格別のご厚情を賜り誠にありがとうございました。ここにあらためて深甚の感謝を申し上げます。
 とは言え、SJTCには顧問として就任しておりますので、これまで同様のおつきあいをお願いするところです。
 また、GM廃止にともない各担当マネジャーとして、須藤宏、石塚勇、恵利川清一、川田浩司、鈴木純也、安田淳が就任いたしております。
 これまで同様ご指導ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。
 
 そのようなわけで「JGMの四季の風」は別の形でのエッセイを考え掲載させていただく所存です。
 また、ホームページ変更についても、情報担当マネジャー川田浩司が鋭意工夫を図っているところです。
 何かと御不満もおありでしょうが、ご容赦いただきたいと存じます。
 とりあえず、この場を借りて報告かたがたご挨拶申し上げます。
 
 
                
Vol.1 JUVY 創 設
Vol.2 理想の指導者とは
Vol.3 素晴らしき指導者
Vol.4 回顧・2005年
Vol.5 新春は箱根と共に
Vol.6 凛として颯爽と
Vol.7 眼のつけどころ
Vol.8 視点・感点
Vol.9 思い出に残る一言
Vol.10 新たなる旅立
Vol.11 JUVY誕生
Vol.12 春のスポーツシーズン到来
Vol.13 指導者としての実践力とは
Vol.14 ジュニアとシニア・その1
Vol.15 ジュニアとシニア・その2
Vol.16 わたしなりに言いたいことを…
Vol.17 「眼に見えない力」
Vol.18 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」
Vol.19 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」
Vol.20 「トーナメント・有限と無限の交差点」
Vol.21 「定石とひらめき」
Vol.22「合同練習会」
Vol.23「国民体育大会」
Vol.24「心・技・体」
Vol.25「再興」
Vol.26「神在り月」
Vol.27「修行」
Vol.28「言霊」
Vol.29「夢」
Vol.30「影響力」
Vol.31「健康」
Vol.32「我家の凜氣」
Vol.33「食」
Vol.34「インカレ」
Vol.35「2007年 JUVY TC前期総括」
Vol.36「今日まで、そして明日から」
Vol.37「国体関ブロ観戦記」
Vol.38「想いを文字で伝えるということ」
Vol.39「人間の運命について」
Vol.40「思いつくまま継走の如く」
Vol.41「広き世界」
Vol.42「スピード・スピード・スピード」
Vol.43「白と青、そして遊」
Vol.44「36−10」
Vol.45「この卯月に思ったこと」
Vol.46「スプリント」
Vol.47「”運”と”付”」
Vol.48「純粋にひたむきに」
Vol.49「オリンピックへの興味・関心」
Vol.50「ラストゲーム」
Vol.51「氣づき」
Vol.52「私見・学校というところ」
Vol.53「チーム」
Vol.54「遠征講習会」
Vol.55「蔵出し その1」
Vol.56「蔵出し その2」
Vol.57「Enjoy Baseball
Vol.58「ふるさと
Vol.59「夢舞台に向かって」
Vol.60「評価」
Vol.61(臨時増刊)「桂月・秋立つころ〜北上にて」
Vol.62「「古都・奈良でのはなし」
Vol.63「「今の若いものは・・・」
Vol.64「「朱夏の61年間と白秋2009」
Vol.65「「2009日本スプリント地図」
Vol.66「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第1回」
Vol.67「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第2回」
Vol.68「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第3回」
Vol.69「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第4回
Vol.70「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第5
Vol.71「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第6回
Vol.72「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第7回
Vol.73「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第8回
Vol.74「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第9回
Vol.75「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第10回
Vol.76「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第11回
Vol.77「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第12回
Vol.78「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第13回
Vol.79「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第14回
Vol.80「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第15
Vol.81「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第16回

Circle-JUVY General Manager OKUZAWA Yasuo