Vol.80 2011. 弥生
四季の風 ―乗って、向かって、横からうけて―」
第15回 (2011年3月8日)
 

V  私の指導と反省

 
  (4)私を変えたもの ―その1―「師との出会い」

  
 小説・宮本武蔵を書いた吉川英治は「われ以外皆わが師」という有名な言葉を残している。この言葉を知ったのは大学に入学したてのころであった。
 この謙虚な言葉を理解するのは容易だが、心の底から実践するとなるとなかなか難しい。
私も何度も実行しようとしたが、元来好き嫌いが激しいだけでなく、その思想回路(イデオロギー)にアレルギー反応を起こすとその人物には付いていけなくなるというような性格を持って生まれたことから、何度も座礁した。
 
 人間の感性は多くの場面で開発され磨かれるわけであるが、それでも最初は特定の人物から『モノの見方』を教えてもらうことから始まるのが普通であろう。そうして、『モノの見方』を多方面から見られるようにすることが、感性高き個性をつくり、人間としての成長に関与するわけであるが、そういったことに気づいたのはいつごろか定かではない。定かではないが、以下の方々の影響を受けたことは間違いない。
 

                        【師との邂逅・大学卒業まで】
 <中田正雄さん>
 そういった意味で強い影響を受けた最初の人は中田正雄という方である。
 出会いは中学1年生の時であった。佐野市立城東中学校に入学し陸上部に入部した。すると毎日学校に指導に来てくれる人がいた。先輩にたずねても詳しい情報を知っている人はいない。ただ「中田さんという人だ」とだけ教わった。
 なぜかわからないが、とにかく私はひきつけられた。一緒にいて話を聞くだけで楽しかった。
 そのうちに本人自ら素性を教えてくれた。
 田沼町吉水出身であること。名選手とは言えないが、走高跳で神宮大会に出場の経験があること。若いころは東京の青山に住んでいて、アパートの隣の部屋に住んでいた早稲田の学生になり済まし座布団帽子を借りて「早慶戦に夢中になった」こと、青山通りを織田幹雄さんや南部忠平さんが歩くのを遠目から見ていたこと、臙脂色にあこがれていた、などといったことなども話してくれるようになった。
 中でも「人生は一つの趣味では面白くない」といった哲学的なことを13歳のガキに話して聞かせてくれたことは忘れられない。
 大学卒業後に私が写真に凝ったのは中田さんの影響が大きい。
 その他、水彩、横笛、古典、漢詩何でもござれであった。「俺は大学には行っていない。すべて独学だった」というが、その教養の質と量は半端ではなかった。
 もちろん学校の先生ではない。そのような仕事の体験もないという。それでも、話は上手いし、示範はできるし、情熱はあるし、何よりも子どもが好きと言う点で、その辺の教師などは足元にも及ばない方であった。
 家の一階を駄菓子屋にして、その店の隅でモンジャ焼きの鉄板を2〜3構え、子どもたち相手の商いをしていた。今から思えば失礼ながら生計は大丈夫だったのかと、あらぬ心配をしてみたくなる。
 中田さんには高校時代もお世話になった。高校時代は毎日指導に来るわけではなかったが、新しい練習方法などを開発すると、バイクにまたがり颯爽とやってきた。
 試合が終わると多くの教え子たちが中田家に寄りこみ、夜遅くまで反省会(?)だった。
 大学に行ってからも帰省で佐野の駅に降り立つと、足は自然と駄菓子屋に向いていた。
 
 妻幸子も現役時代は指導を受けた。
 「競技人生の中で、自分としては一番理解しやすい教え方だった」と言う。
 

 <岡島宣八先生>
 高校時代は岡島先生が顧問であったから、全てのマネージメントは岡島先生が行っていた。ただし、スケジュールはすべて自分で立て、毎日の反省も欠かさなかった。毎朝岡島先生に日誌を持参することと、毎月曜日に週間スケジュールをチェックしてもらうことで信頼関係が成り立っていた。
 インタ―ハイでは同じ部屋で先生がベッド、私が床に寝た。その宿舎に中田さんが訪ねてきて翌日の作戦を皆で話し合っていても何ら違和感はなかった。
 私の高校時代はそんな環境で陸上競技をしていた。

 
 <金原勇先生>
 大学時代に金原勇先生にお会いしたことで、専門書を読むのにも高い温度で取り組めた。それはそうだ。著書多数の先生に直接指導していただくという感動は強烈である。今でも、理論思考回路の基本は金原先生にある。
 このころ教授間の確執があることも知った。大人の世界を知ったということである。大学4年の日本インカレのマイルリレーの予選が終了し、スタンドで金原先生のアドバイスを受けているのを見た某は、「金原の指導を受けるのならお前は除名だ。決勝は走らないでよい!」とまで言われた。
 しかし、翌日オーダー用紙を書いたのは私だった。
 年間グラゥンドで数えるほどしか会ってない方の指示は断固うける気はしなかったからである。もちろんオーダー用紙は無事召集所を通過したことは言うまでもない。

 
 <加藤晴一先生>
 大学時代に影響を受けた方はもうお一方いる。当時、静岡県立富士高校に勤務されていた加藤晴一先生である。
 インターハイのリレー競技が4×200mR一種目から4×100mRと4×400mRの二種目に変わった最初の年の4×100mRを優勝に導いた監督である。
 大学3年の春合宿は静岡県の草薙で行われた。その合宿は雨にたたられ大変な合宿になったが、一日だけ指導に来ていただいた。そこでトレーニングに関する講義を聞き、いたく現場の重要性を感じた。そのころ宮川千秋選手(現東海大学教授)を指導していたこともあり、説明が非常に具体的であったことを覚えている。
 大学卒業前に伊藤章さん(現大阪体育大学)のお宅に居候しながら一週間ほどコーチングの手ほどきを受けた。教員一年目には渡辺義正先生(旧姓鳥居・東京オリンピック棒高跳出場、日本最初の5mボルター)のご協力を得、富士高校を拠点に栃木の有志が集まり冬季合宿をおこない指導を受けた。
 昭和50年。礒繁雄という選手がハードルで中学日本一になった。
 「おい、礒と言うのはすごいぞ。お前か岩壁(当時希望が丘高校)が取れ!お前らがやらないなら俺が取りに行くぞ!」と発破をかけられた。
 先生は毎年静岡を中心に研修会を開催していた。そこに行き何人もの先輩監督を紹介された。ある年は織田幹雄さんとご一緒させていただいたこともある。
 昭和54年(1979年)の全日本中学が宇都宮で開催された際はスタンドで二日間ご一緒させていただき、短距離を見る目をご教授いただいた。
 大野が日本ジュニア200mで優勝したころは慶應大学のコーチをしていたことから「大野をくれないか」と何度も言われた。その大野が大学を卒業して最初の日本選手権では盛んに「大野が怖い」と外交辞令ではなく、言っていた。アトランタ五輪の最終予選のことである。当時先生は杉本龍勇選手の面倒を見ていた。
 「奥澤、9秒台の感覚がわかったよ」それが私との最後の会話になった。
 大学の卒業論文は手書きの英文、富士高校〜浜松北高校時代は陸上競技の選手の輩出に限らず進路指導でも手腕を発揮されたという、本人そのものが文武両道を地で行く人であった。

 

                         【師との邂逅・大学卒業後】
 <西藤宏司先生>
 最初の赴任校の佐野商業高校にハンマー投で活躍した北山寿男がいた。この選手をどこの大学に進ませるか悩んでいた。北山家は商売をしていることから(体育系の大学は親が反対するだろう)と一人考えていたが、話せば「どこでもいいですよ。本人が行きたい所なら」との答えであったので、躊躇することなく「中京大学にしましょう」と推した。
 大学時代『市川家』と称する合宿所があり、そこを開拓したのが大先輩の西藤宏司先生であった。私もその合宿所にお世話になっていたわけだが、多くの先輩から『伝説の人・西藤宏司』の話を聞かされていた。
 その話を教えてくれた先輩も市川家に一度は籍を置いた方々である。宮下憲(筑波大学)、伊藤章(大阪体育大学)、加藤昭(日本女子体育大学)、船原勝英(共同通信社)諸氏、何ともそうそうたるメンバーであるが、西藤先生の前では皆霞んだ。
 市川家にあった西藤先生学生時代使用の円盤は我が家に、『健康なる胃袋は最良なる調味料である』の色紙は北海道の品田家に現存する。
 その西藤先生が中京大学で指導していたのであるから、北山は中京大学に進学するのは必然だったのかもしれない。
 ただし、北山が入学して4ヶ月後に先生は筑波大学に異動されたので、北山家には今も借りがある。幸い北山が商売で成功しているので、今のところこの話は立ち切れてはいるが…。
 指導者になってからは、先生に会えば同じ行動をさせていただいた。指導法はもちろん食事の仕方から服の好みまで真似た。栃木の中央専任コーチになっていただき何度も来県していただいた。和歌山の松本一廣先生や京都の中島道雄先生をはじめ本当に多くの先生を紹介していただいた。
 平成4年度の内地留学の際には指導教官になっていただいた。
 
 これまでの先生との会話や先生の著した著書の中から現在も私の課題になっている語録をいくつか書いてみる。
 

 『動き』を言葉にするのは難しい
 動きを統一した言葉で表すことは、体育学の歴史がある程度積み重なった今でも、まだ確立されていない。それどころかその方向すら見つからない。
 古来より我が国では『技術』や『技』は他人に説き明かすものではなく、秘密に自己の中にしまっておくことが美徳とされてきた。
 世界中の人たちが意思の疎通をするのに共通語が必要であるように、体育・スポーツの世界でも、共通にわかるための専門語(技言語)を作ることが必要だ。

 

 一生新人であれ!誰でもはじめは素人である!
 何か事を始める時、心の中でこの言葉をつぶやくと何となく落ち着く。それは誰でも自分の内心を素直にさらけ出せない恥ずかしい心が内在しているからである。
 最初の年は新人と呼ばれるが、二年目となると新人とは呼ばれない。しかし、本当は『二年目の新人』なのである。先生も生徒も、コーチも監督も、係長も課長も、父ちゃんも母ちゃんも毎日が新人!一生が新人なのだ。
 是非、恥ずかしがらずに堂々とした、日本一の新人でいてほしいと願う。毎日新しい気持ちでいる人は素晴らしい。

 

 『無』について
 人は一般的に『無』を『む』と読む。その意味も雑念を取り払うこと、空っぽになり何も考えないこと、などと理解されているが、ちょっと違う。「とらわれるな!」ということであるとわかった。『無無明尽』とは「明らかでないことにとらわれないことと悟れ!」ということだ。
 人は人生の中で、自分自身を忘れ、他人の眼や世間の眼を気にして本筋から離れて判断することが多い。このような日々を過ごしている人には、指導者の資格は一生得られぬものと思われる。一日も早く、恥ずかしさや卑しさを捨てて、正直に自分の信じる道を進むことを望んでいる。
 『無』すなわち『とらわれないこと』の大切さを体験してほしい。

 

 まず実践、そして研究
 島国である日本は、全ての面で輸入に頼ってきた。体育・スポーツの世界でも武道を除けば、多くは外国から入ってきたと言えよう。このような歴史的背景の中で、まずは模倣することから始めた。世界のレベルに近づくために、高く目標を掲げ、実践に実践を重ねて日本独自のスポーツ理論や体育哲学を構築してきた。その間文献や思想が一度にたくさん輸入されてきたので、外国語を日本語に翻訳しなければならないことから英語の堪能な人がスポーツ界でも多くなり、実践中心の人たちの発言力が弱くなってきた。
 例えば、ウエィトトレーニングでは「10回3セット」とあれば、選手はそれを信じた。
しかし「10回3セットをどのようにやる」という内容は訳されず、具体的にどこにポイントを絞ってよいものかわからなかった。実際のトレーニングでは「何をねらいとして」「どのようにやるか」が問題なのである。
 このように、不十分な情報や、誤った考え方が、実践をおろそかにする研究者に伝えられることによってトレーニングに弊害を招くことがあるのだ。
 これからの指導者は、まず実践し、そして反省し、それから研究することである。



 精神を伝える

 『男は一生一代』という言葉がある。自分のやってきたことを子どもに継がせず、自分の代だけで終止符をうつ、といった意味である。父の仕事を継いだ方が賢明であるかもしれないが、自分の人生は自分で決めさせるようにするのが父親のつとめではないかと思う。
 成功するか失敗するかは問題ではない。まず、自分の好きな道は何か、を知ることである。人生と言う道は多難な道である。それでも、何が到来しようと出発に固い決意があれば苦難の道も開けるのである。何事も真心を入れてやればおのずと生き方は整うのである。
 大事なことは一生の仕事は、どんなに小さな仕事でも、人が嫌がる仕事でも、誇りと自信をもって従事すれば、必ずその道の哲学を得ることができるということなのである。
 愛する子どもには、仕事の道は違えども、歩むに必要な精神を忘れずに伝えることである。

 

 指導者として今の私があるのは西藤先生のおかげである。断じて間違いない。
 先生との思い出は書ききれないので、『西藤宏司を還暦に送る会』で披露した詩を記して、御礼に変えたい。
 
 人に歴史あり
  師は「このままでよいのか?」と常に問いかけながら歴史を刻んでおられる
   ‡
 熱愛
  人を熱く愛する人である
 豊想
  現象を豊かにとらえる人である
 厳学
  課題を厳しく解決する人である
 天運
  天から与えられし運には、素直に従える人である
 自氣
  自分の業を心の底から信じられる人である
   ‡
 人と人とに重なる歴史あり
  昨日(きのう)の延長で今日を生きることなく
  自分の心身(からだ)以上に背伸びすることなく
  人体こそ文明であるととらえ
  熱愛・豊想・厳学・天運・自氣が同質化された時
  師と私の歴史は重なり合ってきた

 祝・還暦   栃木・奥澤康夫


 <中村清先生>
 「なぜ、中村清があなたの師か?」と早稲田大学の関係者に叱責、抗議されそうであるが、師とは自分が決めるものであるから勝手に書く。
 
 私が教員になって3年目、中村清先生は瀬古利彦とともにマスコミを通して登場してきた。その指導法も私にとっては初めて知るものであったが、そのことは私と同年代の陸上競技指導者は皆同じ感想を持ったと思う。
 陸上競技場には長距離が始まると弟子をひきつれて現れる。スタンドの観客はレースそっちのけで中村先生の動きを見つめる。今思い出してもすごい光景であった。
 1976年モントリオール、1980年モスクワ、1984年ロス、と3回のオリンピックの期間、約10年ちょっとの期間が中村先生最後の活躍の場であった。
 
 このころ、佐野高校の卒業生、須藤宏、川田寿、川田浩司が早稲田に入学したことから、先生に係る情報はマスコミに登場する内容より詳しく入ってきた。
 早稲田の名マネージャー村尾氏やライター別所氏と知り合いになったことで、より鮮明に中村像が浮かび上がった。
 
 そうして昭和60年(1985年)5月25日に他界されるわけだが、お亡くなりになるおおよそ2週間前の5月10日、私は別所氏を通じて「話がある」と外苑の絵画館前に呼ばれた。
 その時の説教がその後の私を支えている。
 
 「学校の先生が何を教えているのですか?何も教えていない。私は選手に立派な挨拶が出来るように教えているのです。」
 「人間が古今東西共通してあがめられるものは礼儀だけです。瀬古だってマラソンで世界一ではない。礼儀が世界一なのです。礼儀をわからぬような選手を教えてはいけません。」
 「奥澤先生、あなたがやらないと日本の短距離は駄目になります。あなたがやるのです。」
 「過去を振り返ってはいけない。強くなった選手のことだけ話してはいけません。」
 「弱い選手を強くしようと思って教えていたころの気持ちを持っていますか。」
 「今の日本に全身全霊をかけている人が何人いますか?私はかけています。あなたも全身全霊で陸上に向かいなさい。」
 「今から瀬古が明日の試合に備えて練習を始めますから、よく観ていなさい。」
  そして練習終了後、
 「明日瀬古は日本記録で走りますよ。断言します。」

 

 昭和60年(1985年)5月11日の私の日誌には次のように書かれていた。
 
 瀬古利彦不死鳥のごとくカムバック。
 20000mにおいて日本新記録!
 昨日のトレーニングを見て、私は現在の世界陸上界の頂点を見た!
 そこには私にできることがあり、やらなければならないことだけがあった・・・。
 自信をもってやること
 信念に基づいてやること
 一生は一度しかないこと
 努力は無限であること
 そこに、一日一生  全身全霊  勝気一走  司若永遠  が見えた。
  

 黒木亮なる作家をご存知であろうか。本名は金山雅之といい、早稲田大学競走部時代には箱根駅伝の8区を二度走っている。その当時滝川哲也(現・時事通信社)はアンカーを4年連続走った。
 二人の文章を読むと「中村清」の取り扱いが全く違う。黒木(金山)は『敵役』の如く、滝川は『敬意』である。
 黒木の「冬の喝采」は2008年、講談社より発行されている。滝川の著は「時事通信社・箱根駅伝・滝川哲也」とインターネットで検索すればすぐにヒットするはずである。
 私は「冬の喝采」を読みながら(ああ、こんな思いを胸にしまいながら指導を受けていた部員もいたのか)と思った。読みながら(腹をくくって読まなければ、自分の中村清観が変わってしまう)と自分を励ましながら読んだ。そうして本は最後の最後に差し掛かった。
 しかし、私を待っていたのは以下のエンディングであった。
 それは、明治大学で箱根駅伝を走り、北海道の元教員である実父の家を黒木(金山)が初めて訪ねたシーンである。
 
 机の上には自分がランナーだった頃の写真が二、三枚飾られていた。写真を示しながら。
 「中村清さんにもコーチしてもらったことがありますよ」といった。
 (略)
 わたしたちはあぐらをかいて向き合ったまま、お互いに話題を探しながら、ぽつりぽつりと話した。話の大半は陸上競技のことだった。生後七カ月で生き別れたわたしたちには、親子の歴史がなく、陸上競技だけが共通の話題だった。
 お茶も出ないので、歓迎されていないのかと思ったが、どうやら家事は奥さん任せにしている古いタイプの男性のようだった。
 隣の部屋で電話が鳴った。
 「ちょっと、すまんね」
 田中氏が立ち上がって書斎にいった。
 「あ、お前か……」
 障子をとおして田中氏の声が聞こえてきた。電話をかけてきたのは、実母のようだ。
 「おい、今、雅之がきてるんだわ!早くタクシーに乗って、帰ってこい!」
 先ほどまでの淡々とした口調から打って変って、興奮気味に話していた。
 「あと三十分くらいで帰ってくるから」
 茶の間に戻ると、田中氏は、照れたような顔でいった。
 かって箱根駅伝を走った老人は、目の前であぐらをかき、再び手持ち無沙汰な顔つきになった。
 窓の外に視線をやると、今にも雪が降り出しそうな曇り空だった。
 わたしは、実母と弟が帰ってくるまで、中村清の思い出でも話そうかと思った。

 

 ここで本は終わる。
 これから始まる父子の会話が浮かんできそうな終わり方に晴れ間をみた。

                
Vol.1 JUVY 創 設
Vol.2 理想の指導者とは
Vol.3 素晴らしき指導者
Vol.4 回顧・2005年
Vol.5 新春は箱根と共に
Vol.6 凛として颯爽と
Vol.7 眼のつけどころ
Vol.8 視点・感点
Vol.9 思い出に残る一言
Vol.10 新たなる旅立
Vol.11 JUVY誕生
Vol.12 春のスポーツシーズン到来
Vol.13 指導者としての実践力とは
Vol.14 ジュニアとシニア・その1
Vol.15 ジュニアとシニア・その2
Vol.16 わたしなりに言いたいことを…
Vol.17 「眼に見えない力」
Vol.18 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」
Vol.19 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」
Vol.20 「トーナメント・有限と無限の交差点」
Vol.21 「定石とひらめき」
Vol.22「合同練習会」
Vol.23「国民体育大会」
Vol.24「心・技・体」
Vol.25「再興」
Vol.26「神在り月」
Vol.27「修行」
Vol.28「言霊」
Vol.29「夢」
Vol.30「影響力」
Vol.31「健康」
Vol.32「我家の凜氣」
Vol.33「食」
Vol.34「インカレ」
Vol.35「2007年 JUVY TC前期総括」
Vol.36「今日まで、そして明日から」
Vol.37「国体関ブロ観戦記」
Vol.38「想いを文字で伝えるということ」
Vol.39「人間の運命について」
Vol.40「思いつくまま継走の如く」
Vol.41「広き世界」
Vol.42「スピード・スピード・スピード」
Vol.43「白と青、そして遊」
Vol.44「36−10」
Vol.45「この卯月に思ったこと」
Vol.46「スプリント」
Vol.47「”運”と”付”」
Vol.48「純粋にひたむきに」
Vol.49「オリンピックへの興味・関心」
Vol.50「ラストゲーム」
Vol.51「氣づき」
Vol.52「私見・学校というところ」
Vol.53「チーム」
Vol.54「遠征講習会」
Vol.55「蔵出し その1」
Vol.56「蔵出し その2」
Vol.57「Enjoy Baseball
Vol.58「ふるさと
Vol.59「夢舞台に向かって」
Vol.60「評価」
Vol.61(臨時増刊)「桂月・秋立つころ〜北上にて」
Vol.62「「古都・奈良でのはなし」
Vol.63「「今の若いものは・・・」
Vol.64「「朱夏の61年間と白秋2009」
Vol.65「「2009日本スプリント地図」
Vol.66「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第1回」
Vol.67「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第2回」
Vol.68「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第3回」
Vol.69「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第4回
Vol.70「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第5
Vol.71「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第6回
Vol.72「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第7回
Vol.73「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第8回
Vol.74「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第9回
Vol.75「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第10回
Vol.76「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第11回
Vol.77「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第12回
Vol.78「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第13回
Vol.79「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第14回
Vol.80「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第15

Circle-JUVY General Manager OKUZAWA Yasuo