Vol.79 2011. 如月
四季の風 ―乗って、向かって、横からうけて―」
第14回 (2011年2月8日)
 

V  私の指導と反省


 (3)「佐野高校黄金期」と言われた時代

  
 「何が佐野高校黄金時代だ。黄金時代というのは後の人が評価して言う言葉だ。」と、ある先輩に厳しく叱責されたことがある。
 それはそうだ。
 それでも多くの先輩が「戦前の黄金期と比べても、今の方が強いのではないかな。」と言ってくれた。
 
 あれから20年。やはり、1980年代は佐野高校の黄金時代であったのだ。
 なかなか総合優勝ができなかった数年間共に闘った卒業生は見えない力で後押しをしてくれた。現役部員は持てる力をいかんなく発揮した。それらが私の体内を通して強烈な総合力となって表現されていたのである。
 

                                  【ブレーク】
 栃の葉国体も終わり、優秀な部員が残っていた昭和56年(1981年)は佐野高校陸上競技部が一気にブレークした年である。
 
 栃の葉国体は地元でありながら、篠原修の三段跳2位と藤生康徳の400mの6位の二種目にとどまり、佐野高校関係者は大きな活躍はできなかった。
 私に変な気負いがあったのだと思う。
 
 別の観点からすれば他にも言い訳はあった。
 鈴木隆などは少年B走幅跳の代表に一度は内定しながらも、監督である私が出席できない会議で県外から来た選手に替えられた。私自身あまりにも若くして監督になりすぎたのだ。地元で開催される国体の会議に監督が呼ばれないなどということがあったことでもわかる。それでもあの時鈴木は入賞できた、と今でも信じている。
 妻幸子は代表選手となっていたので準備にぬかりはなかった。しかし、大会までの準備など関係ないかの如く、試合中突然ピットを変えられるという、地元開催としては考えられないような運営に動揺し6位に沈んだ。
 今だから話せるが、強化部も審判部も情報の共有化や連携など深く考えず、それぞれの動きは完璧でも、部署ごとに別の動きで国体を迎えてしまったのだと思う。まるで戦時中の陸軍と海軍のようなものだ。
 
 ショックでしばらくグラゥンドに来ても集中できない様子であった鈴木も、候補選手でありながら予選会で敗れ去った者も、出場したが活躍できなかった者も、全員がひと冬で気持を立て直し国体後最初のシーズンを迎えた。
 
 栃木陸上界の開幕試合は4月の春季大会である。
 その大会に佐野高校は亀田哲夫(3年)、原英治(1年)、藤生康徳(2年)、栗原浩司(2年)のメンバーで4×100mRに臨んだ。
 前年まで県内で勝てなかったチームが圧勝し、記録は前年度日本高校ランク1位の42”06という高いレベルのものであった。
 この記録が出たことにより、メンバーだけでなく部員全員の顔がスッキリとし、目が輝き始めた。何かわからぬが、部員全員が呪縛から解放されたような顔になった。全員の顔に自信のようなものがみなぎり、陸上競技を行うことの価値を高いものとしてとらえ始めたようにも見えた。
 マイルリレーは2年前にインターハイに出場していることもあり、県内ではそれなりの強さは見せていたが、こちらも藤生、島田嘉紀(1年)、栗原、亀田のオーダーで圧勝していた。
 
 迎えて5月。
 県高校総体の最初の種目4×100mRで突然奈落の底に突き落とされるようなことがおこった。何と、1走亀田から2走原へのバトンパスを失敗し、その時点で日本ランク1位のチームがインターハイの出場権を失ったのである。
 この時の私は、短距離専門の指導者がこんなことをさせて恥ずかしい、の思いで一杯であったが努めて冷静にふるまった。
 しかし、部員は全員血の気が引き、一気に戦前の顔とは違う、生気のない顔になった。
 
 この時に人知れず泣き崩れていた亀田が、自分が犯した罪は自分で償う、という感じで165cmの小さな体を目いっぱい使い、110mH2位、400mH優勝、マイルリレーもアンカーとして優勝した。
 同時に総合優勝も達成したのである。
 
 その時の思いを亀田は生徒会誌に寄稿している。題名は「勝気一走(しょうきいっそう:奥澤の造語)」である。
 
 部員全員が不安そうな顔つきで待っていた。静かに放送に耳を傾けている。部員一人ひとりの顔に疲れがうかがえる。そんな緊迫感をつんざいて「男子学校対抗88点」アナウンサーの声が競技場に響いた。やった!念願の総合優勝である。結果的には圧勝の形になったが、優勝のアナウンスを聞くまでは不安で落ち着けなかった。だから、優勝の喜びというよりは、苦しかった3日間の試合に対するプレッシャーからの解放感で一杯であった。
 それというのも、高校総体において佐野高校が総合優勝するのは初のことなのである。一昨年、大きなチャンスが巡ってきた。「今勝たねば、これから先総合優勝は手にすることはできないかもしれない」とまで言われた。しかし、チャンスを生かしきれずに宇都宮農業に1.5点差という小差で敗れた。昨年、二度目のチャンスが訪れた。一昨年の試合を教訓に一人も取りこぼしのないよう頑張った。そして、最後の最後であるマイルリレーまでもつれこみながら勝つことができなかった。総合優勝の壁の厚さを体で感ぜずにはいられなかった。しかし、それからは臥薪嘗胆で練習に打ち込んだ。そうした結果が36.5点差という大差での総合優勝となったのである。(後略)



 もうひとつ紹介する。昭和56年5月12日「下野新聞」平野記者の記事である。

          勝利呼んだチームの和  ―佐野―
 「男子学校対校1位佐野88点」アナウンサーの声が陸上競技場に響き渡った。「一昨年、宇農に1.5点差、昨年は国学栃木に1点差で涙をのんだ佐野が三度目の正直で念願の初優勝に輝いた。奥澤監督は「よくやってくれました。手放しで喜んでいいと思います」と満足げ。陸上競技の最後を飾る男子1600mR。佐野は第一走者の藤生が飛び出し、島田、栗原、亀田とトップのままゴールイン。2位の真岡に2秒6もの大差をつけて堂々の大会新をマークした。四人とも気合十分だった。
 その気合には理由があった。前日の男子400mRは佐野の優勝が確実視されていた。ところが、第2走者新人の原がバトンを落として思わぬ予選落ち。原は昨年佐野北中のとき、ジュニアオリンピック100mで全国制覇を果たしたスプリンターだが、高校で初めての大会で気負いがあった。泣き崩れる原はもちろん、栗原、藤生、亀田全員がショックを隠せなかった。原はその直後の100m予選もとても走れる状態ではなく、惨敗に終わった。
 そんな原に室岡主将はじめチームメイトは「気にするな。終わったことは忘れろ」と励ました。
 原はこの日坊主頭で競技場に現れた。「忘れたかった。全部僕の責任ですから。学校対校で負けるようなことがあったら……。とくちびるを噛んだ。原にとって最後の関東大会へのチャンス、男子200m決勝。辛うじて5位に入賞、関東へのキップを手にした原は「必死で走りました。後は最後の1600mRで先輩たちが雪辱してくれることを祈るだけです」とすがすがしい表情を見せた。
 奥澤監督は「原にとってはいい経験になったと思う。そして何より400mRのミスをカバーしようと、執念で円盤投に優勝した室岡主将をはじめ、部員全員が心を一つにして燃えてくれたことがうれしい。1600mRではきっとやってくれるでしょう」と話した。
 午後3時45分。佐野の四人の走者は、学校対校初優勝の夢をのせて全天候のトラックを風のように走り抜けた。

 その1ヶ月後、関東高校は茨城で開催された。
 土浦日大の層の厚さにはいかんともしがたく、無念にも総合は準優勝に終わったが、確かな手ごたえを感じていた。
 残念だったのは前年IHに出場しながら不調に終わったHJの富田進(現JUVY監事)、県予選で2mを超えた直後捻挫しこの大会に間に合わなかった大豆生田洋(JUVY設立の立役者・故人)そしてHTでは数cm差で7位の川田学もいた。
 可哀そうだが仕方がない。天国と地獄が同じ宿舎やテント内に存在するというのが陸上競技というスポーツなのである。この時に団体スポーツにはない残酷さをいやというほど味わった。野球は負けて全員で泣けば済む。しかし、陸上競技は負けた者が朋友の前で簡単に泣きっ面をするわけにはいかないのである。指導者も何食わぬ顔で勝負の世界に没頭しなければならない。
 
 この大会で主将室岡は次のような思いを綴った。
 
 試合では悲しい者もいれば嬉しい者もいます。悲しいものにはあくまでも厳しく冷たい風が当たるのです。
 2日目の私は砲丸投で全国へのキップを手に入れることはできませんでした。6位との差はたった1cmでした。ああ、あと1cm遠くへ砲丸が飛んでくれさえすれば…。しかし、それもひと時の感傷にすぎません。明日は大事な円盤があります。主将がこれではいけないと頭を明日に切り替えるよう言い聞かせました。
 そして最終日。円盤の日がきました。この日、私は朝から落ち着きませんでした。どうしても昨日の砲丸の敗戦が思い出され、思うように円盤に頭を切り替えられませんでした。
その日は朝から雨でした。そのような中で神にもすがりつきたい気持ちになり、近くの神社に向かい、ここで朝練習を行いました。朝とはいえ、雑木林に囲まれたその神社の境内はまだ薄暗かったのですが、そこで雨音を聞いているうちになんとなく心の落ち着きを取り戻し、集中できてきました。
 10時競技開始。一投目から2位以下を5m近く離していましたが、油断せず一投一投必死で投げました。そして結果的に優勝することができたのです。六投目を終えた瞬間、今までやりぬいてきた冬のトレーニングや何度も襲われた自分との闘いの苦しさがうそのように消えていくのを感じました。
 しかし、このような苦しさを忘れてはいけないのです。自分に打ち克つことができた高校時代の素晴らしさを、自ら賞賛したいとさえ思っています。「心身ともに素晴らしい人間ほど記録が伸びる。同時に記録を伸ばすことによって人間の器は大きくなっていく」と僕らは教えられてきました。「人間が大きくなっている」と言われることほど、僕らにとって素晴らしい言葉は見当たりません。
 結果的には総合準優勝という栄誉を得ることができました。それは単なる僕らの勝利ではなく、佐野高校陸上競技部員として互いに励まし合い、汗を流し、磨き合った人間性の勝利だ!おこがましいかも知れませんが、そんなふうに考えることができた関東大会でした。そのようなチームの主将をさせてもらった僕は、なんと運の良い男だろうとつくづく思っています。
 この大会を最後に高校時代の陸上競技を引退する者もいます。新たに全国大会を目指す者もいます。どちらの立場にたってもこの経験はとても貴重です。
 一つの大きな人生の波を超えた今、佐野高校陸上競技部は未来新たな目標に走り始めました。(後略)




                                  【手ごたえ】
 話は少々さかのぼり昭和56年(1981年)3月のことである。
 全国選抜合宿は神奈川県小田原市の城山競技場で開催され、私が短距離の主任コーチとして推薦された。
 「短距離は主任の考えで指導して良い、アシスタントコーチも主任が決定してほしい」ということなので、躊躇することなく北海道の品田に依頼することにした。参加選手も選ばれし者ばかりであるためか本当にやりやすかった。アシスタント制もやめ、男子は私、女子は品田が指導することにした。といっても二人とも参加者全員の練習を観ることができるよう練習内容は100/200パートも200/400パートはもとより、男女ほぼ同じことをやった。
 また、「指導者は自校の生徒を同行させてもよい」と言われたことから栗原を連れて行くことにした。昨年の国体では腰痛が原因で結果は残せなかったが彼の素質を高く評価していたからである。
 合宿には、新田(愛媛)の北尾一則、八女工業(福岡)の吉田伸二、荏田(神奈川)の原田聡に加え、まだ中学生の不破弘樹(群馬・沼田中野球部)が参加していた。女子では八女(福岡)の古賀由美子や山北(神奈川)の磯崎公美がいた。
 私と品田はこの時に(現在も行っている)スプリンターのコントロールテストを行ったが、分析の結果、男子は栗原、女子は山岸かおり(北海道・札幌藻岩)に注目した。二人ともスプリンターとしての特性が抜きんでていた。つまり、光る物を見出したのである。
 合宿終了後、磯崎らと動物園に行ったが、「栗原は全国で通用する!俺の目に狂いはなかった」と確かな思いで一杯であった。
 ちなみに、この合宿に参加した選手はこの年の神奈川インターハイで大活躍をする。男子100mが北尾、200mと400mが吉田、女子は100mが古賀、200mと400mは磯崎が優勝し、この合宿に参加した者が男女の短距離種目のすべてに優勝した。
 つまり私は、現状における日本の高校生のトップレベルの能力を手中に収めることができたのである。このことは大きかった。
 
 合宿参加者が大活躍をした横浜インターハイでの佐野高校は?と言えば、栗原、そしてマイルリレーも準決勝で敗退したが、負けた気はまったくしなかった。
 佐野高校には何とも言えぬ勢いがあった。
 
 インターハイ終了後も順調に練習を消化することができた。水道山や八幡宮をうまく使い、日陰の中で出力を高める練習を数多くこなした。
 その結果、国体予選で1年の原が10秒8、2年の栗原が10秒6で走り、滋賀国体に向けエンジン全開となった。
 しかしその直後、栗原は虫垂炎を患い二年連続の国体予選落ちの屈辱を味わった。原は何とか3位に入賞し、面目を保った。
 
 「足並みさえそろえば!」
 私の中では短距離の佐野、リレーの佐野の夢は膨らむ一方であった。
 


                            【リレーの佐野・試練】
 翌年、栗原が最上級生となり主将となる。そこに有望な新入生が入学してきた。金井幸夫と佐藤裕一である。
 佐藤は5月の県高校総体では栗原、原に食らいつくというあっぱれなレースをして私を喜ばせた。栗原10秒7、原10秒8、佐藤10秒9で上位を独占した。
 しかし、試練はこの時始まっていた。
 実はこのレースの後半「栗原に勝てる」と思った原がむきになって栗原を追いすぎ脚に異常をきたしていたのである。
 私は4×100mR決勝に原を使った。原は自分の脚の状態がわからない状態で記録を狙って突進した。フィニィッシュラインに到達したものの、原は完全な肉離れをおこした。
 
 原の脚の回復は思わしくなく、関東大会は金井、佐藤の1年生2人を使ったが、4×100mRは楽勝であった。
 栗原と藤生の活躍もあり総合優勝はマイルリレーに持ち越されていた。マイルリレーの始まる前は松山(埼玉)がトップ、次いで中之条(群馬)、そして佐野であった。マイルリレーの決勝に残っていない松山は中之条と佐野が3位以下であるならば優勝、中之条は3位以内でなおかつ佐野より上位に来れば優勝、佐野は優勝すれば総合も優勝という状況であった。
 私はその状況を召集所で決戦を待つ4名に伝えた。当然中之条の選手にも聞こえていたはずであるが、「佐野高校の選手はそんなにヤワではなくなっているはずだ!」と信じていた。結果は1走から一度もトップを譲ることなく島田(2年)がテープを切った。
 スタンドで一息ついていると、松山高校の原島先生が「おめでとう。3分ちょっと前までの総合優勝監督と握手をしてくれ」と笑顔で近づいてきた。その時から原島先生とのお付き合いが始まった。
 

 以下この項とは関係ない。
 山口インターハイ(1986年)終了後の焼肉屋で松山高校の一団と偶然一緒になった。しばらく歓談すると、原島先生がいきなり
 「来年インターハイの総合優勝を狙っているのですが、誰を主将にするか決めかねているんですよ。奥澤先生を信じるから、この場で指名してはくれませんか。」と言われた。
 図々しくも私は彼らの眼を見て、その中の一人を指し、
 「この子ですね」と言った。すると、
 「N!お前がキャプテンだ。奥澤先生ありがとうございます。」
 と原島先生が言い放った。
 そんなわけで翌年の松山高校の主将が決まってしまった。強烈なバンカラ、埼玉県内でも有数の進学校、文武両道を絵にかいたような松山高校の主将を、しかも話をしたことがないどころか、練習を見たこともない私が決めてしまったのである。
 翌年の札幌インターハイ。本当に松山高校は総合優勝を達成した。

 

 再び関東高校。
 スタンド下の本部席に行くと中之条の本多先生が「佐野高校に運動会をされちゃったな」と笑顔で握手を求められた。100m2位、200m優勝、400m2位・6位、400mH2位、両リレー優勝と、短距離だけで総合優勝したことを運動会と称しての祝福の言葉であった。
 
 こうなるとインターハイが楽しみになってきた。
 インターハイ前の小手調べにと7月に開催されていた日本選手権リレーに出場した。ここでは原の復帰試合とすべく、ベストメンバーで臨み大学生や実業団チームに交じって高校トップ、その年の高校ランク一位の41秒74という記録で4位に入賞した。
 
 その年のインターハイ開催地鹿児島には「勝つために来た!」と豪語できる雰囲気で到着した。
 
 4×100mR予選はアンカーの原が軽く流して楽々通過した。
 準決勝も原に渡ったときは1チームだけ飛び出ていた。「もう流してもいいよ」と独り言を言おうとした50m付近で、原が突然ジャンプしたように見えた。その直後太ももをおさえた。
 「やっちまった」私は思わずつぶやいた。肉離れの再発である。万事窮した。
 
 一日目の400mで島田がヘロヘロになりおかしな雰囲気は確かにあったが、こういった顛末が訪れるとは夢にも思わなかった。
その後、栗原は得意の100mでは準決勝で落ちた。まるで2年前の国体で苦しそうに走っているときのようなバラバラな動きであった。
 後がない佐野高校。
 大会三日目の朝、主将・栗原に私はこう告げ、
 「このままでは佐野に帰れない。ここで負けたら桜島に一緒に飛び込むぞ。その覚悟が決まったら俺をまたいで出ていけ。200mは3本全力で走れ!」
 宿舎の玄関に横たわった。
 しばらく考えた栗原と付き添いの島田は私をまたいで出かけた。
 そして2位となった。
 マイルリレーの準決勝では疲労困憊のはずの2走栗原は非公式ながら46秒8のラップでバトンを運んできた。アンカーの島田もよく走り、N県K高校を抜こうとしたら大きく斜行され肘鉄をくらい、ガクッと崩れ3着となり落選した。
 まだ、私の、そして佐野高校のリレーは通用しなかった
 
 インターハイ1週間後の県の強化合宿中、私は心臓発作で倒れ救急車で運ばれた。
 なんとか回復したころ、栗原は日中ジュニアの代表に選ばれ中国にいた。
 しかし、入院中のベッドで、国体で栗原を勝たせるためのイメージが完成していたことを栗原はしらない。
 
 この入院は私の脳内を浄化するのに十分すぎるものであった。
 パワーと技術の合体を目指した練習法と主治医の協力による疲労回復法、そして何よりも本人の「このままでは終われない」という意識が9月に10秒4という記録を出し、自信をもって島根国体に向かうことになる。
 
 予選はダントツで駆け抜けた栗原であったが、準決勝はスタートで思ったように主導権を握れず全体の7番目の記録、プラスで通過した。
 決勝は一か八かのつもりで秘策を使った。その結果かどうかは今でもわからないが、山内を除いた7人が横並びで走る30m地点でスルスルと栗原が抜け出し、後半も詰められることなくバランスよい走りで優勝した。
 栃木県初の快挙と騒がれたが、私の思いは「ああ、こんな感じで勝てるのか」であった。
 この国体では宮崎国体に続き共通4×100mリレーも決勝に進出し5位に入賞した。
 


                           【リレーの佐野・序の章】
 翌1983年は名古屋でインターハイが開催される。
 インターハイのリレーで決勝に残るためにはどうしたらよいか、ということばかり考えた。まだ、原や島田が個人種目で全国に通用するとは考えられなかった。特にインターハイでの原の怪我と島田のもろさが脳裏に焼き付いていた。そのようなわけで佐藤、金井を加えたリレーに焦点を絞った。4番手と5番手では力の差が大きく、新入生にも頼れない状況での冬の練習は、「慎重かつ大胆に」であった。

 そして迎えた昭和58年。
 他校の先生には失礼ながら、県大会は80%で、関東大会は90%のイメージで乗り越えた。インターハイの日程を考慮し、原、島田には県予選から200mを捨てさせていた。結果論ではあるが、インターハイ終了後島田は21秒4、原は21秒8で走ったことを考えれば、個人種目に専念すれば、当時なら十分に決勝に残っていたはずである。

 関東大会ではリレー2種目二連覇し、順調な仕上がりを見せた。
 島田は400mでも大会新で優勝し個人種目での期待も抱かせた。
 
 そうして、暑さ対策も疲労対策も万全に名古屋に向かった。
 一日目。400mで島田が4位入賞。4×100mは補欠の山根善美(2年)を使い楽々乗り切る。
 二日目。100mで原が8番目の記録ながら同記録が2人いるということで結果的には落選。風を恨むも仕方ない。4×100mRは準決勝を難なく通過する。島田も回復、原も元気。
 そして決勝。1走佐藤(2年)2走金井(2年)と無難につなぐ。3走の島田が伸びて、中京大学中京とほぼ同時に原にパス。原はペースを考えずに猛然とダッシュしトップに立つも、90m付近で失速し抜き返され2位で終えた。
 「リレーでは100m一気に行ったら最後まで持たない」ということを教えておかなかった私の負けであった。この時の敗因が翌年からのバトンパス改良につながることになる。  

 疲れも見えてきた3日目。
 「マイルリレーに懸けて進んできた方針は間違いなかった」と自らに言い聞かせた。
 しかし、私はここで読み違いをしている。
 島田の肉体的疲労ばかり考え、原の精神的ダメージを考えていなかったのである。実は原は島田より疲れていた。100mでは8番目の記録ながら決勝を走れず、リレーは競り負けて2位に終わった。身体の疲労を取り除く最良の薬は満ち足りた心が一番なのである。そのことを私は自覚できずにいた。
 ここで原に何らかの対策、例えば予選は休ませておくなど、をしておけば決勝でもっと活き活き走ったと思う。
 しかし、インターハイという勝ち残りゲームに51秒5が最高の1年生は当時の私は使えなかった。
 
 マイルリレーも予選、準決勝と難なく通過した。
 
 ここでとんでもない手を農大二高の鳥羽先生が打ってきた。
 確かに噂は流れていた。「決勝は不破を使ってくる」という噂が・・・。
 しかし、関東大会で農二を寄せ付けずに勝っていたこと、中学時代から不破を知っていたことが、人も走順も変えずに行く!という結論を選択させてしまったのである。
 
 1走の佐藤がトップで渡す。2走の金井はうまくひきつけ最後に突き放すというセオリー通りに走ってトップを守る。3走の原も、いつものように自重して最後の直線に賭ける作戦を躊躇なく選択した。
 その時、後方から不破がものすごいペースで原に迫り、バックストレートであっという間に置き去りにしたのである。誰もが「不破はつぶれる!」と思った。私も原のラスト100mに期待した。しかし、不破はそのまま走り切り、大差をつけられた佐野と八女工業は慌てて農大二高を追ったが、すでにレースをズタズタにされていた。
 結局3位。
 しかし、4×100mRの2位と合わせ初のリレーの全国入賞である。しかも決勝を走った4人は走順こそ違うが全く同じ4人。この時点で400mを専門にするのは島田だけ。スピードリレーの面白さ満喫であった。私が大学時代に走っていた4×100mとマイルリレーの記録も10年で教え子の高校生が破った。
 このインターハイでは栗原がアシスタントコーチとして全日程付いてくれた。
 
 その栗原(筑波大学)は秋には1年生ながら日本インカレで優勝した。
 新里敏幸は明治大学の主将としても関東インカレ100m3位に続き、日本インカレでも5位入賞をした。
 
 佐野高校関係者一同、気分よく国体が開催される前橋に向かった。
 宿舎も新里、栗原に加え須藤宏、そして私が同宿となりチームワークも抜群であった。
 それにも増して、群馬国体には私にとって個人的に楽しみがあった。共通のリレーは1走新里、2走栗原、3走相良(群馬国体少年B100m8位)、そして原というオール佐野高校(OB、現役混成チーム)で出場することになっていたからである。
 
 昨年12月に宮崎に講習会で訪れた時、宮崎工業の稲垣先生が「面白いものがありますよ」と1枚のDVDを取り出し私に見せてくれた。そこには、群馬国体4×100m決勝のNHKテレビの映像があった。実に27年前のものである。
 1~2走、8レーンの栃木は逃げに逃げた。画面は新里と栗原だけを追いかけている。アナウンサーは「栃木、栃木」の連呼である。そのうち全チームが映し出される。  
 結果は7位であった。
 高校生の3〜4走は荷が重かったのかもしれないが、今もう一度采配を任されても同じオーダーにすると思う。

 


                           【リレーの佐野・連の章】
 翌年のインターハイは秋田である。たくましく成長していたリレーメンバーにはエースはいないが使える選手の数が多くなってきていた。
 
 県予選は両リレーとも楽々通過。
 
 関東大会では100m決勝に佐野高校から3人残った。栃木の先生方で「佐野高校の3人が何着に入るか」という賭けをしていた方がいた。結果は2・5・7着であったが、5着に滑り込んだ主将の山根は中学時代の専門は砲丸投、7着の相良幹夫(2年)は中学時代の実績はさほどではない選手だったことを考えると、速く走るためのトレーニング法はかなり確立してきていたようである。
 
 この時の4×100mRではものすごいことがおこった。
 1〜2位あたりで4走にパスした佐野高校は3位以下を10m近く離していたように見えた。そこを信じられない速さで「またあいつが来た!」のである。「不破だ!」とスタンドがどよめいた。あっけなくやられた。あの時の不破のスピードは凄まじかった。
 しかし、そんなことはどうでもよい。インターハイのキップをつかむことができたのだから。問題は別なところに潜んでいた。
 リレーを終えた金井が「脚の調子が悪い」と訴えてきた。
 すかさず「200mは棄権せよ」と厳命を下したにもかかわらず、「佐野高校の代表としてスプリントで関東のタイトルを取りたい」と哀願する金井の言葉にほだされ、「予選を走ってからもう一度考える」に私の言葉が変わってしまったのである。
 翌日、200mの予選を走った金井は「何ともない」という。迷いながらも準決勝を走らせたところ、50m付近でやってしまった。肉離れである。
 
 さあ、マイルを走る選手がいない。ここは栃木の大会ではない。関東大会なのだ。本当にこまった。100m決勝進出の山根を使うか、2年の桜井利之を使うか、迷いに迷った。
 しかしこういう時にはキャプテンしかない。私は山根を呼び「走ってくれ」と頼んだ。「バトンをつなげばよいから」と言って。
 1走の吉田幸弘も2走の大塚勝も51秒を何とか切れる程度の選手である。3走の山根にいたっては中学時代の砲丸投げら高校入学後転向し100mだけなら走れる選手なのである。金井が走れないということになった時から2走でアドバンテージをとるなどといったもくろみはとっくに消えている。残された作戦は400mでインターハイ出場を決めているアンカーの佐藤に頼るレースしかなかった。
 
 決勝は厳しい戦いとなった。ポツンと佐野高校が遅れて残り500m(3走の残り100m)となった。
 あきらめたのは私だけではなかったろう。すると「ワーッ」というどよめき。ゴール付近を見れば上位争いのチームがバトンパスでもみ合ったのかバトンを落としたらしい。落としたチームも拾って走りたいのだろうが混戦できているためバトンを拾えない。佐野高校が通り過ぎてから拾って走り始めたため佐野高校は7位に上がった。それでも6位までは10m近く離れている。
 アンカーの佐藤はむきになって飛ばした。「これでつぶれるな。本当に終わった」と覚悟を決めた。そして残り80m。果たして佐藤の脚はとまった。ところが、ところが、である。別に競り合うことのない前を走るチームが小競り合いしてホームストレートの真ん中でバトンを落としているではないか。気づいた佐藤が息を吹き返し、何と6位でゴールしたのである。
 この大会では安藤和之、後藤幸夫の跳躍陣が踏ん張り二度目の総合優勝を飾った。
 
 期末試験も終わり、まもなくインターハイを迎えるというのに、金井の脚の回復は思わしくなかった。
 仕方なく、100mは棄権し4×100mR一本にかけることにした。
 4×100mRの1走は相良、3走山根、アンカー佐藤で固定。2走は予選・準決勝は1年の饗庭徹で何とかしのぎ、決勝は金井を投入するという作戦をもって秋田に乗り込んだ。
 
 予選終了後作戦変更を余儀なくされた。
 それはアンカー佐藤の出が速く、3走が追い付かず佐藤が止まって渡すという失態を犯したのである。予選1組3着。その時の補欠の選手に言わせれば「予選落ちを覚悟しテントに戻り下を向いたまま一言も発しなかった」という。
 それから長い時間を一喜一憂しながら過ごした。すべての予選が終わってあらためて確認した。結果は6番目、しかも7番目と1/100秒差というきわどさで予選を通過していた。
 
 ここで金井を呼び「行けるか」と聞くと「大丈夫です」とこたえる。今度は饗庭を呼び
「アンカーにする」と言うと、笑いながら「前は全部抜きます」とはじける。
 そして佐藤を呼び有無を言わさず「饗庭に替える」と話した。
 
 結果的にはこの判断が2年連続2種目入賞に結びついた。さらには、昨年は両リレーを走った4人が同一人物、今年は両リレーを兼ねた者が一人もいないという記録に残るような選手起用法となったのである。

 準決勝、今度は軽くトップ。後から思えば、ここで行き過ぎた。決勝で勝つために必要な『目に見えない余力』というものがなかった。
 結果は4位。
 決勝に行けたのも予選がすべて、決勝で勝てなかったのも予選がすべてであった。
 
 前年インターハイ4×100mRで2位になった時の1走佐藤は「悔しさと、奥澤に対する怒りと、自分のふがいなさに、何とも言えない気持ちで準決勝と決勝を見ていた」という。
 その佐藤が4×100mR決勝が終わってマイルメンバーを集め、
 「マイルは最低でも4継の順位になってみせようぜ」と言ったそうである。
 関東6位のチームでもインターハイはあらためて「位置について」だということを、佐藤が知っていたとは思えないのだが・・・。
 
 金井をあきらめた段階で、1走吉田(2年)2走大塚(3年)3走桜井(2年)4走佐藤(3年)で行こうと決めていた。
 予選落ちを覚悟していたが、4人は予選、そして準決勝と通過した。特にアンカー佐藤の強さは光輝いていた。何と準決勝では400mチャンピオンを楽々抜き去っていった。
 ランキング24位のチームが決勝に残った。周りは驚きの声をあげた。洛南高校の中島先生が決勝前に私のところに来て「先生、先に帰ります。また佐野にやられてもうた。勝ち方教えてくださいな。また来年勝負させてください」と言って秋田を後にしたことを鮮明に覚えている。関東優勝の土浦日大はエースを温存し予選で消えた。北関東で決勝に残ったのは佐野だけだった。大会前のチームベストを約5秒更新した。
 そして佐藤の宣言通り4×100mの順位に並ぶ4位となったのである。
 
 たくましい若者たちであった。
 何しろ「宿舎で割り当てられた部屋が暑いから」との理由で、蒲団を屋根上の洗濯物干場に持ち出し、星を眺めながら寝ていたくらいであるのだから。
 このような行動力こそ、アスリートに求められる目に見えない強さなのかもしれない。
 
 この年国体は奈良で行われた。
 身長186cmの饗庭(1年)はインターハイ終了後2〜3回の練習を経て国体予選の少年B110mJHに出場した。本人は「ハードルはいやだ」と駄々をこねたが、最後は納得した。結果は僅差で勝った。
 本番を前にアプローチを7歩にした。12台跳×10を一度やり奈良に乗り込んだ。
 奈良の会場は強い追い風が吹いていた。予選は追い風参考ながら初の14秒台で走ったが、やっとプラスで拾われた。
 「風やめ。風とまれ。できれば向かい風になってくれ」と私は念じ続けた。すると風が弱くなり始めた。ひょっとすると、と思わせた。プラスで通過なんか関係ない、風さえやめば、と急に強気になる自分がいた。
 そして決勝。ハードルレース4回目、試合としては2試合目にして饗庭は大会記録で優勝した。追い風は2mちょうどであった。
 終わってから多くの方々から「風に恵まれたね」と言われた。しかし私は「風が少なければ13秒台だった」と言いたいのを我慢した。
 
 楽しみにしていた饗庭の100mは準決勝で終わった。追い風参考ながら予選を10秒66で軽く通過したが、準決勝でハードルのリード脚側のハムを肉離れしてしまったのである。
 「栗原、島田とともに饗庭もソウル五輪を狙う!」と本気で公言していたが、実のところ饗庭の競技はここで終わることになる。
 
 この年、日本インカレにおいて学生記録で100m二連覇を果たした栗原も肉離れをしていた。金井も含め、佐野高校4×100mRドリームチームの夢はあっけなく消えた。
 大事な時に全て肉離れである。スピードを出せる走り方はできるが怪我もする。まさしく両刃の剣である練習方法に対し、鉄拳を見舞われた、と言っても過言ではない。
 
 北海道に就職していた新里がどこまで走れるかはわからないが、新里(10秒74)〜栗原(10秒51)〜金井(10秒67w)〜饗庭(10秒66w)である。今から27年前に40秒そこそこの記録は間違いなく出ていた、という夢を今でも見るバカな自分がいる。
 


                           【リレーの佐野・続の章】
 スプリンターを冬変える。スプリンターは冬変わる。
 
 日本ジュニアに出場するため青戸慎司(和歌山工業)が5日間ほど調整合宿をするために我が家に来た。
 青戸と一緒に数日間生活し、練習したことで、あまり練習が好きでなかった鈴木純也の目の色が変わった。のんびり屋の栗原(現姓松永)が緊張感を持ち始めた。これまで二人はインターハイを走っていないが、こうなると心配はない。手綱を調整すればよいだけのことだ。心配だったのはインターハイの決勝を走っている相良、吉田、桜井が青戸と一緒に走ることに腰が引けていた点であった。
 冬季トレーニングが始まると、饗庭はJAPAN組となり別路線を歩きはじめていた。当然私も饗庭の合宿や練習会に付いて行くため、学校は新主将の桜井に任せることになる。
 青戸が来たとき心配したことが現実となった。声の小さな桜井の統率力が自然低下し、部員の気持ちがだんだんとバラバラになってきていた。それでも県内では圧倒的な力を持っている者の集まりだった。事実、この翌年(1987年)が最も得点を取った年代だ。新人戦も高校総体も学年別も2位以下にダブルスコアーだった記憶がある。他校は総合優勝など考えもしなかったろう。それくらい県内では強かった。
 板橋徹という長距離の選手が頭角を現し始めたのもこの年であり、今までの短距離、跳躍、投てきに加え長距離も加点するようになり、全種目で圧倒的な強さを発揮していた。
 
 昭和60年(1987年)の関東高校で板橋が3000mscで2年生ながら優勝し、私にとって初の長距離種目関東大会優勝者が出た。
 
 鈴木は110mHと三段跳そして混成競技で県の三冠王になっていたが、この大会のリレーは温存していた。饗庭は走れる状態ではなかった。
 そのようなわけで3走まで苦労してきた4×100mRではあったが、アンカーの栗原が見事な中間疾走を見せ、他チームをごぼう抜きし優勝した。
 
 マイルリレーは苦労した。
 こちらも4走の吉田に渡った時は後方にいた。吉田は忍者のように、他の選手に気付かれぬように追い、そして団子となっている集団の後ろについた。そしてホームストレートに入る直前一気にスパートし、6位を確保、さらにぐんぐん上がっていったその時である。「危ない」私は思わず叫んだ。意識的か無意識か、某チームが外によれ、吉田にあたって来たのである。一気にスピードダウンした吉田は3位から5位まで落ちフィニッシュした。 
 鹿児島インターハイと同じ情景であった。
 私は学生時代バトンで腕をたたかれた経験を持っているが、体を寄せられはじかれた記憶はないし、はじいた記憶もない。そんな事をする余裕があれば「前に!」なのが陸上競技であるはずだ。したがって佐野高校の生徒にはきれいなリレーをするよう指導していた。バトンゾーンでの押し合いも含め、これは何とかしなければいけない、と思った。
 幸い5位に入賞したから金沢へのキップは手に入れることができた。昨年は6位で通過し4位に入賞していたから、インターハイに行けば何とかなる、の思いは強かった。
 
 金沢インターハイには真岡高校と一緒に列車に乗って行った。投てき主体の真岡は元気いっぱい、当時はやりのおにゃんこクラブの音楽をかけ、列車の中で顰蹙を買うほどヒートアップしていた。佐野高校は押おされぎみの旅であったが、現地についたら逆に静かながら闘志が見られように感じた。ようやく佐野の生徒が闘う場所の空気がわかるようになってきたのである。
 宿は高台にある厚生年金施設。松山高校と同宿で極端に食事が悪かった。原島先生はついに切れて現地の宿泊担当者に「インターハイでこんな食事を体験したのは初めてだ。何とかしてくれ」と言っていたが、本当にひどいものであった。私は何も言わずに、「何か買ってこい」か「何か食ってこい」と現金を渡していた。自由にさせても管理ができる集団になっていた。
 
 以下はその時の笑い話である。
 私が「外に一杯やりに行ってくるからおとなしくしていろよ」などというと、拍手で送り出すくらい余裕があった。
 たけし軍団にラッシャー板前という芸人がいたことから、板橋をつかまえ「ラッシャー板橋、予選で落ちたらラッシャーいてまえだぜ」などと軽口をたたきながらテントの中で明るく過していた。笑い声が絶えなかった。その中心には必ず鈴木がいた。
 
 3000msc予選で板橋は他校の選手に何度も肘を当てられた。
 「汚いな!長距離ってこんなものなのか」肘を当ててきた超有名校の監督に聞こえるように私は言った。最終障害を超有名校の選手が越えようとするその時、そんな卑怯なことをしてでも勝ちたいのか、それが駅伝の有名校のやることなのか、とショックをうけながらも、「こけろ」と小さくつぶやいた。
 その瞬間「ガツッ」「バタッ」とバックスタンドにも音が聞こえた。障害に足をひっかけてその超有名校の選手が倒れているところを板橋は抜き去り、予選を通過した。
 
 金沢に饗庭はいなかった。ある事情により金沢には遠征させなかったのである。
 4×100mRは饗庭の替わりに鈴木を使うつもりで来ていた。そのことで戦力が落ちるとは思っていなかった。精神力の強い鈴木は追い込まれれば追い込まれるほど力を出すタイプ、と読んでいた。
 思っていた通り、決勝で鈴木はダントツのトップで瀬下に渡した。瀬下もよく走りトップで相良に渡した。関東高校100m2位の相良が勝負を決めてくれる。昨年も決勝を走っている佐野高校の絶対的なエース相良を3走に配置するという余裕があった。だから大丈夫、と誰もが思った。そう思った瞬間、相良はずるずると下がっていった。当時我々はそのような状況を「逆噴射」と呼んでいたが、まさしくそうなってしまった。そうなると準決勝で爆走した栗原の加速能力に賭けるしかない。栗原も相良の不調を瞬時に読み取り、バトンをうまくもらったが、肩に頭が埋もれるほど固くなり、上位のチームを抜き去ることはできず、4位に終わった。
 それでも3年連続入賞した。誰かれともなく「マイルも残って両リレー3年連続決勝だ」と気勢を上げていた。
 
 マイルの予選では、1走の島田が堅実に走り、2走の栗原がゆうゆうトップに立った。ところがメンバー中唯一昨年決勝を走った3走の主将桜井が動かず、ずるずると順位を下げた。しかしアンカーの吉田はここでも他チームに当たられながらも冷静に走り2着を死守した。
 
 ここでも吉田が当たられた。
 関東大会や今大会の板橋の件もあり私にはある覚悟ができた。そのことは後述する。
 
 その晩緊急ミーティングをした。
 「桜井が動いてない。誰か桜井の代わりを務めてもよい、という者はいないか」と私。長い沈黙が続く。今大会初の暗い雰囲気になった。桜井は「自分を使ってください」と言わない。よほど調子が悪いのか自信をなくしているのか、いずれかなのであろう。私は相良が挙手してくれることに期待した。彼はメンバー中唯一昨年4×100mRの決勝を走りながらも、今大会の決勝では期待通りに走れなかった男であるが、3年になり200mも県チャンピオンになっていたのでマイル1本くらい走れないはずがない。名誉挽回で「俺が行きます」と言ってほしい、それを私の口からではなく本人が言わなければ士気は上がらないのである。
 すると、
 「俺が走りますよ」
と誰かが言った。
 私は耳と目を疑った。
 その男は、
 「みんな何ふざけてんだよ。二種目決勝に行く、なんて騒いでいたのはどこの誰だったんだよ。先生俺が行きますから、俺を使ってください」
 と続けた。
 その声の主は混成競技の400mで苦しみ、そこで2位以下に大きく詰められながら県チャンピオンになっていた鈴木であった。
 「いや、いい純也。お前の400mの力はわかっている。お前だけは怖くて使えないよ」
 と言い終わると、別の者が手をあげた。
 「自分が走ります」
 3000msc決勝で入賞に今一歩届かず9位に終わっていた2年生の板橋だった。
 「何寝言言ってるんだよ。お前は57秒かかるだろうが」と再び鈴木。
 「毛穴から自惚れが入ってきているな。お前にゃ無理だ」と苦笑しながら私。
 ここで場の緊張が解けた。そしてあっさりと私は決断した。
 「瀬下、お前行け!」
 2年生の瀬下は100mを得意とする選手で、身長も163cmしかなく、これまでマイルを走ったことは一度もなかった。
 「瀬下、お前マイルの試合いつも見てるよな。どういうふうに走ればよいかわかるよな」と私の問いに、
 「大丈夫です」
と不安げな顔をしながら瀬下は答えた。
 「お前、島田と仲がいいよな。後は全部島田に聞いて走り方を予習しておけ」
と言ってミーティングを終えた。

 翌日、準決勝の召集所。
 「選手に少し話をしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
 「何を話すのでしょうか」
 「最近の高校生のマイルリレーを見ていると、バトンパスや走行中、押し合いや当たりあいが多く、高校生の試合とは思えないので注意をしておきたいのです」
 「全員にするのでしょうか?」
 「本当はそうしたいのですが、3組だけで結構です」
 「そう言うことならば結構ですよ。どうぞ、どうぞ」
 「すみません、迷惑はかけませんので」
 そんな会話が私と召集所主任との間で交わされた。
 1・2組の選手がコールを終え競技場に向かった直後、「みんな、ちょっと聞いてくれ」と言うと、不思議なことにベンチに座っていた準決勝3組の選手全員がいきなり立ち上がり私を見た。
 「あのなー、最近のマイルリレーを見ているとバトンパスで押しあい、競り合えばぶつかり合うし、まるで格闘技の強いチームが勝つようで陸上競技の本質から外れているような気がしてならないんだ。この組は、押さず当たらず走ってみないか」と提案した。
 鈴木に言わせれば「もう少しきつい言い方だったですよ」と言うことになるが・・・。
 
 準決勝3組は押しあうことなく、ぶつかりあうことなく全チームがフィニッシュした。格闘技に弱い(?)佐野高校は楽々2着で準決勝に進出した。というより、3走の瀬下が見事な走りをしたのである。
 
(注)翌年、国際陸連はマイルリレーの3走と4走のバトンゾーン入口に選手が立つべき位置を示すマークをペイントするようルール改正した。
 

 そして迎えた決勝は瀬下を1走にして、一か八かの勝負に出てみた。しかし、瀬下にとって400mを一日2本快走することは厳しかった。
 「マイルの決勝は150mで終わった」と鈴木が豪快に笑い飛ばし、佐野高校の金沢インターハイは終わった。
 
 「正面玄関前の噴水がある池で誰かが泳いでいるんだって」と観客が叫ぶと、全種目が終わって観るものがなくなった観客がぞろぞろと池の方向に向かって移動を始めた。私は「まさか」と思いながら人ごみの中を噴水のある池に向かった。
そこで水遊びをしている生徒はやはり本校の島田と瀬下であった。拍手も起きていた。私は何も言えず、ただただ苦笑していたが、本音は「よくぞやってくれた。こうじゃなくっちゃ佐高生は」であった。


 
                         【佐野のリレー・休息宣言】
 結局饗庭は陸上競技部には戻ってこなかった。自然の流れで退部ということになった。
 翌年の山口インターハイは4×100mRのみの出場。結果は予選で落選。そこで佐野高校のリレー競技インターハイ入賞が途切れた。
 
 このころから、インターハイへ出場する種目があってもなかなか入賞に届かない時代が続き、平成元年(1989年)の高知インターハイで篠原邦彦が砲丸投で6位入賞したのにとどまっている。
 
 ただし、昭和63年(1988年)には佐野高校4人目の代表(役員1・選手3)となる栗原がソウルオリンピックに出場したし、同年の京都国体では田中亮功が少年B110mJHで饗庭の記録を更新する大会記録で優勝した。
 田中は饗庭と違い100mで12秒を切れないような選手であったが、ハードルに向かうと信じられないスピードで走った。共通しているのは、優勝を狙って出場し、本当に優勝したことである。
 それから20年後に現れた稲葉(インターハイ4位・法政大学)がこの中間のような選手であった。この3人を指導したことで、私はハードルの本質を見たような気がする。
 不幸なことに、田中は国体で優勝したその年の冬、唐沢山で落ち葉拾いの最中に足を滑らせ踏切足足首の骨折のため翌年のシーズンを棒に振っている。その後手術もして3年の関東大会にかろうじて間に合わせたつもりであったが、残念ながら14秒8で走りながら同記録7位でインターハイ出場権を逸した。苦い思い出である。
   


                          【リレーの佐野・大記録】
 佐野高校指導者時代の出来事で何か記録的なものはないものかと考えてみた。
 県高校総体の連勝記録や関東高校の総合上位の回数などではあまりにもローカルすぎてインパクトがない。
 インターハイの総合優勝監督にも名前は入らない。3連勝とか三冠王をした選手どころか優勝者もいない。関東大会100mでは達成したが、インターハイ同一校トリオの全員決勝進出などはもちろんない。
 やはり記録的なものはなかったか、と諦めかけたその時、リレー競技に関しての調査をしてみようかという考えが浮かんだ。
 リレー競技の危うさというものを骨の髄から味わっている。一度の成功は可能だろうが連続的に成果を出すことは強い運が必要であることは言うまでもない。
 昭和41年(1966年)の第18回大会からリレーは4×100mRと4×400mRの2種目が行われていることが、私の興味をさそった。その記念すべき最初の大会の4×100mRで私の師匠の一人であった加藤晴一先生が富士高校時代に優勝していることを覚えていた。
 1種目だけなら数年連続決勝に残る学校はあるだろう。しかし、2種目同時に同一大会で決勝に残る学校はどれくらいあったのだろうか。おそらく少ないのではないかという思いがリサーチに走らせた。
 そこで、第18回大会から平成22年(2010年)の第61回大会までの44年間を佐野高校の川田浩司先生と一緒に調査してみた。
 

 1 同一大会で2種目とも決勝に残った学校 
  トップは八女工業(福岡)の6回が最高である。ついで市立船橋(千葉)、埼玉栄(埼玉)、東海大浦安(千葉)の4回が続き、佐野、添上(奈良)、清風(大阪)、大阪(大阪)、浜松商業(静岡)、宇治山田商業(三重)が3回となる。日南振徳商業(宮崎)、成田(千葉)、相洋(神奈川)、盛岡南(岩手)が2回である。せっかくであるから1回の学校も紹介すると、磐田南(静岡)、葺合(兵庫)、小田原(神奈川)、都立駒場(東京)、清水商業(静岡)、本郷(東京)、宮崎工業(宮崎)、中京(現在の中京大中京・愛知)、洛南(京都)、八千代松陰(千葉)、東農大二(群馬)、東京(東京)、名古屋大谷(愛知)、四日市工業(三重)、大社(島根)、東海大四(北海道)、駿台甲府(山梨)、青森北(青森)となっており、総計32校、佐野を除けば名門校ばかりで驚いた。

 
 2 同一大会で両リレーを同じメンバーが走り決勝に残った学校
  第29回大会の日南振徳商業(宮崎)、第36回大会の佐野、第51回大会の四日市工業(三重)、第55会大会の東海大四(北海道)、第59会大会の青森北(青森)の5校となっている。


 3 同一大会で両リレーを全く別なメンバーが走り決勝に残った学校
   第37会大会の佐野ただ1校。
 

 4 2種目とも決勝進出の連続記録を持つ学校
  2年連続は25・26回大会の宇治山田商業(三重)、35・36回大会の八女工業(福岡)、51・52回大会の添上(奈良)と東海大浦安(千葉)、59・60回大会の盛岡南(岩手)、60・61回大会の埼玉栄(埼玉)の6校が達成しているが、3年連続は36・37・38大会の佐野1校のみ。
  (注)北上インターハイで3回連続の挑戦権を持っているのは埼玉栄一校のみ。

 リレーの佐野がやってきたことは大記録だったのだ。何気なく決勝に残っていたようだ
が、選手に恵まれ、ツキに恵まれて初めてなせる業であったのだ。
 
 平成22年度全国高体連陸上競技専門部への男子登録は4,020校、63,713名である。
 誰もがインターハイを夢見ている。
 

 以下確率から見た場合の数字の遊びをしてみたい。
 仮に4×100mRとマイルリレーの二種目に都道府県予選から参加している学校が1000校あるとする。
 インターハイで決勝に残るためには、8/1000の確率、両種目残るためにはその二乗であるから、おおよそ15,000校に一校と言うことになる。
 さらに3年連続両種目決勝進出ということになれば、1/15,000の三乗か?気の遠くなるような話ではないか。3年連続両リレーで決勝に進出するための確率は天文学的数字と考えてよいのである。
 (注)計算方法に誤りがある場合はご指摘ください。
 

 別の観点から考えてみる。
 リレーで決勝に残るためには、県予選から始まりインターハイの決勝でフィニッシュするまで、走者の無事、バトンパスの回数があるだけでなく、それぞれの大会で規定の順位をクリアーしなければならない。
 佐野高校がインターハイで二種目とも決勝に残り、無事ゴールするためには110回の試練が待ち受けていることになる。
 2010年、佐野高校は4×100mRは13回目で門を閉ざされ、4×400mは28回の試練を通り抜けてきたにもかかわらず関東の関門を通りぬけることができず(7位)そこで終了せざるを得なかった。つまり、41/110回で、インターハイの決勝を走るには程遠く、やっと1/3を超えた付近で終わってしまったことになる。

 
 実は、日本ランクトップながら県予選で敗退した昭和56年、日本ランクトップで準決勝落ちした昭和57年の4×100mRが仮に決勝に残っているならば、5年連続となり、こちらは4×100mR連続決勝進出記録となっていたが、タラレバは止めておく。
 
 この章を書いている時、私の部屋の棚にあるカップと賞状を見てあることを発見した。古い話である。
 国立競技場が全天候走路に改修されたのは昭和48年(1973年)である。競技場開きは「霞ヶ丘リレーカーニバル」であり、その大会は4×100mRが行われていたが、品田・梅村・奥澤・松本のオーダーで東京教育大学は優勝している。
 国立競技場最初の4×400mR決勝は、その1ヶ月後の日本インカレであった。ここでも東京教育大学は奥澤・津田・渡部・松本で優勝している。両種目走ったのは私と松本であるが、このころから、私のリレーへの強運はあったのであろう。
 


                  【リレーの佐野・ロードリレーへ転の章】
 1985年の4月の記録会で、前年まで5000mを17分かかっていた板橋が、いきなり15分14秒で走った。
 板橋の勢いはとまらず2年生にして関東高校3000mSCも優勝したのは前述のとおりであるが、その1学年下には佐野高校時代に400mで鳴らした隆信氏を父に持つ久保雅英(高2の時に山梨国体1500m、10000m出場、後東海大学進学)、佐野高校時代に中距離でならした繁司氏を父に持つ新井昇(早稲田で私の教え子初の箱根駅伝選手として10区をつとめる)や網雅彦(2・3年と3000mSCでインターハイ出場、京セラに入社後2年目にして3000mSCで全日本実業団2位)などの選手がいた。
 そのころ慶野博という、とてつもなく人間的にスケールの大きい者がいた。慶野の父親・軍司氏も佐野高校陸上競技部出身、長距離で活躍していた。その父親の薫陶を受けて育った慶野は、決して弱音を吐かず学業も常にトップ、競歩の選手として全国大会に出場、そして駅伝マネージャーとして采配を振るった。この慶野との出会いがなければ、私はここまでロードリレーに興味を示さなかったに違いない。その慶野であるが、佐野高校を卒業するに当たり、進学先の選択肢が二つあった。一つは早稲田に進み競走部のマネージャーにしてもらうこと。もう一つは医学部に進み医者になることであった。結局彼は医学の道に進んだ。
 
 1983・84年と早稲田が箱根駅伝で二連覇を果たし三連覇を目指しているころ、フリーライターの別所功さん(早稲田大学OB)の紹介でエスビー食品と早稲田大学の合同合宿に真岡高校と佐野高校の生徒を連れ、後閑(群馬県)を訪れた。
 当時の早稲田の精神力は強烈であり、子どもたちの目の色が変わっていくのがわかった。練習中は私と常に一緒にいた慶野が、私の代弁者となり選手に多くのことを伝えていたからであることは言うまでもない。
 そのころの早稲田に、川越学(資生堂を経てセカンドウインド主宰)や木下(現在の金)哲彦、杉本和之らがいた。


 少し寄り道をして当時の早稲田のメンバーについて書く。
 
 川越は我々が参加した合宿後、日本インカレで5000mと10000mの二冠に輝いた。試合終了後、この私を探しスタンドに上がってきた。
 「おかげさまで勝つことができました。ありがとうございました」
と挨拶に来てくれたのである。
 三連覇を目指す箱根駅伝では大八木(駒澤)、鈴木(日体)らと並走して横浜駅前を先頭で通過していった。その時、慶野をリーダーとする佐野高校部員の応援に右手を上げて応えてくれた。実にさわやか、そしてたくましい姿であった。
 
 「木下、奥澤先生が来ているよ」
 2区を走り終えた後ジープに乗りこんでいた川越が大平台ヘアピンカーブの手前、先頭で山を上っている木下に語りかけた。木下は私の姿を確認すると走りながら深々と頭を下げ、再び山に挑んで行った。
 「木下、君の足首はすごいね。接地の際のぶれが全くないよ。スプリンターでもあそこまでは固定できないよ。山登りの強さの秘密がわかったよ」
 と、後閑の合宿のある日、ヒルトレが終わってから一緒に太陽館の風呂に入りながら、足首の動きについて話す私に、木下は、
 「そうですか。しかし自分はスピードないのです。どうしたらよいのでしょうか」
と質問を投げかけてきたのを思い出す。
 そして箱根でもその接地で山を登ってきた。強烈!その一言であった。
 
 「杉本に合わせてくれないか」
 復路はジープに乗らず8区の付き添いをしている川越に尋ねた。本来走る前の選手には面会はさせないのが当時の早稲田の方針だった。
 「どうぞ、こちらです」と川越は特別に私を案内してくれた。杉本は赤い車の助手席のリクライニングシートを倒し、横になっていた。窓をノックすると、杉本は私に気づき起き上がりシートを戻した。
 「おはようございます」あいかわらず純粋な眼をしていた。
 箱根駅伝では箱根山中を観戦するためには、途中の観戦を多少あきらめて、車を飛ばす必要がある。そんな時は、晴れて空気が澄んでいると景色が目にしみる。冬だからなおさらである。すると新西湘バイパスでは富士山が威容を誇り、西湘バイパスでは相模湾がキラキラと輝く。杉本の眼はそんな自然の美しさと同じようなのだ。
 朝練習のこと、食事のことなど、とりとめのない話をした後、
 「どこで待って入ればいい?」と尋ねると、
 「遊行寺の坂を登ったところで待っていてください」という。
「わかった。しっかり走れよ」と言い残し自分が乗ってきた車に戻り、遊行寺に向かう。
藤沢橋で私だけ下車し、遊行寺の坂を歩いて登った。
 指定された場所でしばらく待つと、早稲田のジープが幟をはためかせやってきた。順天堂がすぐ後ろに迫っている。これはやられるか?と不安がよぎる。50mほど並走し激励する。木下がジープの上から「杉本ここからだ!」落ち着いた声ながら叱咤する。そこから杉本は頑張った。後から聞くと「先生が並走してくれたことは覚えていない」という。おそらく意識を失いながら走っていたのだろう。そう言えば昨日の木下も「私に挨拶したことを覚えていない」と言っていた。杉本も区間賞を獲得した。
 この時杉本は2年生。
 3年・4年と杉本は山を登った。もちろん応援に行った。
 箱根の山を登り終えると下り坂となる。そして小さなアップダウンが続き往路のフィニッシュでる。
 小さなアップダウンまで来れば残りは少し。そこで待っていたら顔面から血を流しながら杉本が走ってきた。
 杉本3年の時の話である。長男の将司はまだ小学校2年生。杉本が行き過ぎると、
 「どうして杉どん(なぜだか知らないが、杉本のことを我が家の子どもたちはそう呼んでいた)血を流しているの?」
 「道路の端を走ってくるので枝にあたって切れているんだよ」
 「痛くないのかな?」
 「一生懸命に走ってるから、痛くなんかないさ」
 そんな倅との会話を、毎年箱根に行くたびに思い出している。
 
 以下余談。
 毎年箱根駅伝を観戦に行っているが、今年久しぶりに杉本の眼を見た。東洋大学で3年連続8区を走った千葉優君は盛岡南高校で千田、小池両先生の指導を受けた選手である。
 2011年1月3日午前8時。千葉君に気を注入すべく、握手をした。その時の彼の眼はまぎれもなく1986年1月3日、25年前の杉本の眼と同じ光であった。
 千葉君区間賞。
 

 川越と杉本は浪人して早稲田に入学した。木下は高校時代県予選で落ちている。そんな選手が当時の早稲田を支えていたのである。
 
 箱根駅伝終了後、彼らは佐野に挨拶に来てくれた。慶野さんが企画し会食をした。
 それが縁で彼らは何度も佐野に練習に来てくれた。
 川越、杉本はJUVY(当時は司若会)に所属し、大澤駅伝も何度か走ってくれた。
 彼らと一緒に練習し、駅伝に参加するうちに、長距離部員は駅伝で勝ちたいと思うようになっていった。
 

 そうして私が見た中では最も才能があったと思う矢島孝三郎が入部してきた。
 彼は3年連続別種目で国体に出場した。5000m、10000m、2000mScである。
 
 彼が3年の時、1989年には5度目の京都を狙ったが敗れた。
 
 矢島が在学中は川越を頼り資生堂の合宿に参加させて鍛えたが、ここが私の誤りであった。箱根駅伝やマラソンを狙う選手と高校駅伝の練習とは全く違うものであることに気付かなかったのである。仮に気づいていても、精神性を優先していた私は同じことをしていたと思う。
 
 リレー競技の時は運よく優秀な選手が重なった。
 しかし、駅伝では板橋、久保、新井、網は重なったが、矢島の年代とは重なることはなかった。
 
 駅伝で初めて関東大会に出場した1985年の県大会の3km区間はインターハイでマイルリレーの決勝を走った吉田、桜井であった。
 結果的には最後の京都に挑戦となった1989年は1区矢島が2位以下を1分近く離してきたにもかかわらず3区で一気に逆転され、夢は断たれた。
 矢島以外の選手は、私が期待するほどの精神力は付いていなかったのかもしれない。
 負けた時に私が思ったことは、リレー2種目3年連続決勝進出のころの短距離ブロックの精神力、つまり若者の底力、その偉大さであった。
 
 それでも、大先輩を追悼して開催される大澤駅伝では3連勝をした。
 この記録はローカルなものではあるが、駅伝にのめりこんでいた時代における私の誇りの一つである。
 

 こうして、私は転勤して行くことになる。佐野高校に大野功二を残し、公式戦総合優勝の連勝記録もそのままにして・・・。
 
 佐野高校黄金時代と言われたこのころ、とにかく私はスタッフに恵まれていた。
 岡島校長、故・長野佑邦部長、篠原修教諭には栃の葉国体前後まで、その後大塚安紀部長、吉澤勝宏教諭には転勤までの間。
 母校での勤務15年間は、上司、同僚、先輩、保護者に励まされ、援助を受け、結果を残し、教員生活において最高に充実していた。
 
 その間、
 ・県高校総体獲得点数1,111点(当時は1位6点・・・6位1点の時代)
 ・関東高校総合入賞7回(優勝2回を含む)
 ・全国大会入賞者55名(優勝4名を含む)
 ・日本代表7名(卒業生を含む)
 という結果を残すことができた。
 
 しかし、今の私ならもっともっと選手の力を出せたと思う。
 今回のテーマは成功体験を紹介しているわけではない。
 多くの体験をまとめ、今後に生かしたいと考え書き進めてきたものであるが、これからの私にそれを発揮できる場があるとは保証の限りではない。
 しからば、それをどのような形で誰に伝えるか、私にとって新しい命題である。
 
 
 今回の拙稿の結びに、一部の関係諸氏のご立腹をさそうような表現をしたことをお許し願いたい。

                
Vol.1 JUVY 創 設
Vol.2 理想の指導者とは
Vol.3 素晴らしき指導者
Vol.4 回顧・2005年
Vol.5 新春は箱根と共に
Vol.6 凛として颯爽と
Vol.7 眼のつけどころ
Vol.8 視点・感点
Vol.9 思い出に残る一言
Vol.10 新たなる旅立
Vol.11 JUVY誕生
Vol.12 春のスポーツシーズン到来
Vol.13 指導者としての実践力とは
Vol.14 ジュニアとシニア・その1
Vol.15 ジュニアとシニア・その2
Vol.16 わたしなりに言いたいことを…
Vol.17 「眼に見えない力」
Vol.18 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」
Vol.19 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」
Vol.20 「トーナメント・有限と無限の交差点」
Vol.21 「定石とひらめき」
Vol.22「合同練習会」
Vol.23「国民体育大会」
Vol.24「心・技・体」
Vol.25「再興」
Vol.26「神在り月」
Vol.27「修行」
Vol.28「言霊」
Vol.29「夢」
Vol.30「影響力」
Vol.31「健康」
Vol.32「我家の凜氣」
Vol.33「食」
Vol.34「インカレ」
Vol.35「2007年 JUVY TC前期総括」
Vol.36「今日まで、そして明日から」
Vol.37「国体関ブロ観戦記」
Vol.38「想いを文字で伝えるということ」
Vol.39「人間の運命について」
Vol.40「思いつくまま継走の如く」
Vol.41「広き世界」
Vol.42「スピード・スピード・スピード」
Vol.43「白と青、そして遊」
Vol.44「36−10」
Vol.45「この卯月に思ったこと」
Vol.46「スプリント」
Vol.47「”運”と”付”」
Vol.48「純粋にひたむきに」
Vol.49「オリンピックへの興味・関心」
Vol.50「ラストゲーム」
Vol.51「氣づき」
Vol.52「私見・学校というところ」
Vol.53「チーム」
Vol.54「遠征講習会」
Vol.55「蔵出し その1」
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Vol.57「Enjoy Baseball
Vol.58「ふるさと
Vol.59「夢舞台に向かって」
Vol.60「評価」
Vol.61(臨時増刊)「桂月・秋立つころ〜北上にて」
Vol.62「「古都・奈良でのはなし」
Vol.63「「今の若いものは・・・」
Vol.64「「朱夏の61年間と白秋2009」
Vol.65「「2009日本スプリント地図」
Vol.66「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第1回」
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Circle-JUVY General Manager OKUZAWA Yasuo