Vol.78 2011. 睦月
四季の風 ―乗って、向かって、横からうけて―」
第13回 (2011年1月8日)
 

V  私の指導と反省

  
(2)「栃の葉国体」までの時代
  
 華やかな佐野の陸上も冬の時代を迎えることになるが、それは時の指導者の責任ではない。
 東京オリンピックが終わった1964年からおおよそ10年間、佐野から全国的な選手は誕生していない。
 この章から、私個人の話に移っていく。


                                【私と佐野高校】 
 私は佐野市立城東中学校卒業後、栃木県立佐野高等学校に入学した。高校を選択する際、親父は栃木高校を盛んに進めた。どうやら医者にしたかったらしい。たいした選手でもない私にも大学保証付きという危ないうたい文句で2〜3の私立高校から勧誘がきていた。
 しかし、中学時代、中田正雄さんから陸上競技の面白さを教えられていた私は高校入学後も中田さんから指導を受けたいという理由から、迷うことなく佐野高校を選択した。中学校から歩いて5分のところにあることから時々練習にも行き、上級生とも知り合いになっていた。大学進学という目標もあったので、陸上競技を続けながら受験に対応できる高校という条件を考慮すると、通学範囲内では佐野高校以外は考えられなかった。佐野高校の陸上競技部の伝統も少しは知っていたことから、佐野高校卒業後は大先輩の後を継ぎ日の丸を胸に走り、跳ぶ夢を持っていた。
 
 いざ高校に入学して驚いたのは勉強に対する考え方であった。特に参ったのは、他教科のことなど考えずに、各教科が独自に出す家庭での課題学習量の多さであった。とてもではないが勉強と部活動の両立は時間的に厳しいと思ったが、放課後は自然と部室に足が向いていた。酒を飲んでいると時間がたつのが短く感じるというのは酒飲みの自己弁護であるが、好きな陸上競技も同じようなもので練習が佳境に入ると時間がたつのが短く感じる。そのころ酒は飲んでいないのは当然であるが、毎日遅くまで練習に明け暮れることになった。つまり、両立はできないまでも部活動は辞めずに3年間過ごすことができたのである。
 
 そのころの佐野高校の陸上競技部は正直なところ強いとは言えなかった。年間誰か一人インターハイに出場できればよい程度の競技部であった。文武両道とは名ばかりで佐野高校普通科は文傾高校と呼んでもよいような学校だった。
 
 佐野高校のインターハイ連続出場が途切れたのは私が高校2年生の時である。その年佐野高校からは個人種目では私一人しか関東大会に出場できなかった。私は100m、200m、400mの3種目の出場権を持っていたが、100mと400mが同一日だったので(県大会はそれを何とか通り抜けた)400mは棄権した。しかし100mも200mも準決勝で敗退した。原因ははっきりしていた。関東大会前に虫垂炎となり、ごまかしながら走ったのである。
 
 3年では何とかインターハイ出場という伝統は守った。
 しかし、インターハイの200mは9番目で決勝進出を逃した。悔しかったが、この時の敗北が「いつかは自分の力で佐野の陸上を復活させる」という熱き闘志の苗を育てるきっかけになったことは間違いない。大学を選ぶのもここが重要なポイントだった。
 


                      【佐野高校陸上競技部後援会】
 大学を卒業し教員になった私は佐野に就職することができた。1974年4月のことである。
 1980年には栃木で国体が開催されることになっていたので、いやがおうでも栃木県ではスポーツに対するボルテージは上がっていた。
 
 佐野は栃木県内における陸上競技発祥の地である。もちろん旧制中学、クラブチームとしての活動は全国でも有数の歴史を誇る。
 勤務校である佐野商業高校の正門をくぐったとき、こよなく佐野の陸上競技を愛する者のひとりとして感激に胸が一杯であった。
 「先輩諸氏の作られた歴史を振り返りつつ、将来は佐野を日本陸上競技の中心地にしてみせる」といった見当違いのバカな夢を持っていた。
 私が佐野高校に入学したころ、それまで佐野中学及び佐野高校のOBで組織されていた佐野スパルタ倶楽部は時代の波に対応すべく門戸を広げ、多くの会員とともに歩み始めていた。これは当時にあって画期的なことであった。総合型地域スポーツクラブの陸上競技版と言ってもよい。会員もゆうに200名を超えていた。
 
 そのような中で、佐野スパルタ倶楽部の流れは流れとして守りながら、佐野高校陸上競技部の歴史も大切にしようとしたのが岡島先生であった。
 先生は佐野中学から佐野高校陸上競技部OB組織の確立と現役部員の活動資金援助を目的に、栃木県立佐野高等学校陸上競技部後援会(現在の旭城陸友会)の組織づくりに尽力され、昭和45年(1970年)、後援会の立ち上げにともないOB名簿と歴代記録集を編集された。
 私は就職後1年で母校の佐野高校に転勤したが、最初にした陸上競技関連の仕事は、さらに正確な名簿と記録集の作成であった。時に昭和50年(1975年)のことである。
 この仕事は佐野高校で監督をするのに大変貴重なものとなった。諸先輩の名前、現役時代の種目、現況などが自然と頭に入ることとなり、どこでお会いしても「何年卒業で何を専門種目にし、最高記録は△△で、現在は□□にお住まいで、どのようなお仕事に就かれている○○先輩」とわかった上で対応できた。
 その結果多くの先輩に面倒をみていただいた。
 先輩諸兄とお会いし、ズバリ会話が進めば、「お前が奥澤か、これは後援会費だ」と現金を渡されることも少なくなかった。
 
 「以下、時効」と判断して暴露する。
 
 <その1>
 日本中、今で言う佐野高校陸上競技部の追っかけ(?)をなされていた岡野先輩などは「これで何かうまいものを食わせてやれ」が遠征先での最初の口上であった。先輩は当時市議会議長をなさっていたわけであるから日程調整にはたいへんご苦労をなされていたはずなのに、当時の私は何も感じなかった。今思うと本当に情けない後輩である。
 
 <その2>
 初代後援会長で歯科医の野口先輩のところで虫歯の治療をしてもらった後、
 「金はあるか?」と聞かれ、
 「あまりないのです。」と答えると、
 「じゃ、今日の治療代はいいや。」と言われたので、あわてて
 「治療代はあります。陸上部の活動資金が少なくなっているということです。」
と言い直すと、
 「ま、治療代もいいや。学校も忙しいのだろうからこれからは裏から入ってこい。」
と言われて驚いた。
 会話はここで終わったようであるが、実は終わっていない。
 翌日グラゥンドで指導していると後援会長がさっそうと自転車でやってきた。
 「これを使え!」
とだけ言って多額の金をつかませ、さっそうと帰って行く。かっこよかった。
 もちろん後援会の会計簿には入れたことはいうまでもないが…。
 ちなみに初代後援会長は学生時代に箱根駅伝で活躍し、マラソンでも日本十傑入りしている。会長のご子息は佐野高校から東京外語大学に進学し、学生時代早稲田の鈴木章介と日本選手権で争い2位となっている。勝った鈴木はオリンピックに出場した。
 
 <その3>
 ある日
 「今年のインターハイは遠い会場だな。飛行機で行くのか?」と電話がかかってきた。
 「夜行電車で行く予定です。」と言うと、
 「バカなこと言ってんじゃないよ。そんなことで勝てるか!」とおしかりを受ける。
 (そんなこと言われても学校からは飛行機代は出ないしなー)などと憂鬱な一日を過ごしていると、当の先輩から翌日再び電話で「今日何時に◎●という店にこい」と呼び出しがある。行くと、「まあ飲め」である。飲んでいるうちに説教が始まる。
 「岡島先生に聞いたよ。なぜそういうことを先輩に言わないんだ。そういうときのために先輩はいるんだ」
 「すみません。とてもではありませんがそんなことは言えません」
「だからお前らは学校の先生しかできないんだよ」などといった厳しいお言葉が続く。そのうち、
「これを足しにしろ」とズボンのポケットから二つ折りの茶封筒が出てくる。
「中は後で見ろ!今は飲めばいいんだ!まだ一升空いてないぞ!ママ、酒!」となる。
そうとうへべれけになってから家に帰る。封筒の中身を見ると、大金である。すぐさま
神棚に封筒を上げて柏手(“はくしゅ”ではない、“かしわで”と読む)である。酔いが覚めるどころか一晩中感動で眠れない。

<その4>
「インターハイに行くのに金が足りん」
「いくらだ」
「付添い分と大学生が行ってくれるのでその分だ」
しばらくすると、50万の現金を渡される。
「これで足りるか」
「余るよ。こんなにいらん。それよりもどうしたこの金は?」
「牛を一頭売ってきた(笑)」
先輩に対して横柄な口をきいているな、とお思いでしょうが、実はこの先輩私の親爺で
ある。その後もたびたびいただくことになった。
 この金に関しては会計簿なし。正規ルートの裏金というやつかな。

このような人なくして私の佐野高校指導者時代の弟子の活躍はなかったと思っている。
夢を見た。実践もした。しかし、先輩諸兄がいなければ無情な夢に終わったであろう。

人との邂逅や縁は運を呼び込む。今あらためて感謝という言葉を思う。



            【佐野商業高校定時制〜佐野高校定時制時代】
話が前後する。
まさか、バスケットボール部の顧問になるとは思わずに校務分掌表を茫然と眺めていた。
 昼間の陸上競技部は見られない?がっかりして校庭に出てみた。佐野商業高校が創立した年であり、校庭は石だらけ。ここでは練習はできないどころか、授業もできない。
 そこで考えたのが、こちらでできないのなら佐野高校でやればよい、という案であった。
 
 最初に出会った生徒はスポーツなら何でもできる、できないものはないというほど器用な北山寿男であった。私は大学時代に佐野に里帰りすると佐野高校で一緒に練習していた。保谷(陸上部のグラゥンドがあったところ)に呼んだこともある。
 北山の高校時代はやり投から始めハンマー投で落ち着いたが、中京大学進学後はやり投でも十種競技でも成功している。身体は小さい。170cmそこそこだ。
 実は北山、高校時代の特筆はハンマー投ではない。3年生の時の関東選手権で佐野SACチーム4×100mRの第2走者として短距離選手に交じって走り、全く遜色なく関東選手権で優勝したことである。教員2名、大学生1名、高校生1名のチームであった。今なら出場できないであろうが、当時のメンバー構成に関してはおおらかだったようである。
 専門のハンマー投では関東2位。インターハイ7位、国体5位であった。
 2008年、ご子息が佐野高校時代にやり投で関東2位になったとき「ここまでは俺と同じ歩みだけれど、これからだよ、全国は厳しいよ」と言っていた。
 事実セガレはオヤジを追い抜くことはできなかった。
 その年の大分国体、私は北山ご夫妻と一緒に大分に行った。
 セガレの試合が終わった晩、「悔しいのはもちろんだよ。だけど、オヤジとしては複雑だね。オヤジの記録は記録として残したいし、セガレはセガレで活躍してほしかったし」と飲みながらポツリと私にもらした。
 JUVYにおいて、その威厳は強烈だ。今では私のご意見番である。「高校時代からそうだったじゃない」とは本人の弁である。これには私も反論できない。
 
 当時の私の一日はこうだ。
 朝は目が覚めると起床するが、遅くまで寝ているわけではない。朝飯はきちんと食す。とはいっても、お袋が作ってくれる。
 10時ころから練習を開始。場所は道路、階段、ゴルフ場、時々足利の陸上競技場。学校ではほとんどやらない。
 昼食を済ませ、昼根をしたりしながら3時ころまで休み、バイクで佐野高校に出発。佐野高校と佐野商業の練習を1時間ほど見ていると4時45分。あわてて佐野商業高校に出発し打ち合わせに間に合わせる。
 授業が終わると、顧問であった女子バスケット部と一緒に練習。練習が終わると彼女たちの住む寮へ定員オーバーで送り届ける。時には2度、3度。家に帰る時間は12時前後。食事をして風呂に入るとバタンキュー、である。
 この生活は佐野商業高校(1年)と佐野高校(3年)定時制時代はほとんど変わっていない。佐野高校に異動後変わったことは、窓から練習が見られたこと、授業やホームルームなどがない時間なら外に出られたこと、放課後バスケットボール部員を寮まで送らなくてすむようになったこと、全日制の授業も持たせてもらえるようになったことで部活動の副顧問も命じられたこと、などであろうか。
 
 副顧問を命じられたのは教員2年目。
 その年もハンマー投げの選手がインターハイ、国体と入賞した。田名網純哉である。
 2年生の頃は暑さに弱く、「インターハイ大丈夫かな?」と思っていたが、3年生になればきっちりとやってくれた。食事にも気を使っていた。細い体を大きくするために肉を1kg食べるような生活をしていた。父親が柔道の大家ということで柔道少年であったが、中学時代に走幅跳でファールながら7m近く跳んだというバネはハンマー投に転向して2年でインターハイ4位、国体5位、日本ジュニア7位となった。
 現在は神奈川県で県立高校の教員として、外弟子の一人として頑張っている。
 
 佐野高校に異動した春、グラゥンドに顔を出すと坊主頭の選手が2人いた。須藤宏と長島宏光である。後に知ることになるのだが、須藤の母親は私の小学校1・2年の担任、長島の父親は私の中学校の時の陸上競技部の顧問であった。
 この二人とは1年の時から大会という大会はすべて一緒に行動した。それは当り前の話で我が家に下宿した最初の生徒である。私が定時制勤務のため夜遅く帰ってくる、その車のエンジン音を300m以上前から「須藤は百発百中聴き分けていた」と長島がいう。
 その須藤は2年次にジュニアオリンピックで三段跳2位入賞したのが高校時代の最高であったが、早稲田に進学してから本格的に十種競技に取り組み日本代表になった。私は須藤の大学時代のインカレや日本選手権には必ず応援に行った。そこで中村清先生に知っていただくことになる。これも縁である。
 長島は試合中自分の不甲斐なさに「殴ってください」と来るような選手であった。専修大学に進学後もハンマー投げを続けインカレで入賞した。副将も務めた。熱き心を持つ彼はJUVYへの愛情も深く、地味に投てき選手を育ててくれている。本当にありがたい話である。
 
 須藤と長島に加え五十畑健治の3人で岡山インターハイに参加した。五十畑は1年の冬先輩の投げたハンマーを大腿部に受け、何度も手術を繰り返し2年の秋に見事復帰した奇跡の人である。岡山インターハイの付き添いは新里敏幸であった。
 インターハイ終了後4人と私は日本三大庭園の後楽園や姫路城を見学した後、奈良に2泊した。なぜ奈良かと言えば、以下のとおりである。
 「インターハイの帰りはどこかに旅行に行こうぜ」と聞くと、3人の3年生は間髪入れず
 「飛鳥に行きたい」という。
 「どうして?」と私。
 「古典の授業で万葉集をやったときに、S先生が情景が浮かぶような話かたで解説してくれたから一度は行ってみたかったからです」と答えた。さすがに進学校・佐野、と嬉しくなったのを今でも覚えている。今の生徒ではなかなかこうはいかない。
 
 飛鳥駅前でレンタサイクルを借り、一日中自転車をこぎながら見学してまわった。
 岡寺の坂を自転車で悠々と上りきった須藤に限りない将来性を感じた。
 当時カメラに凝っていた私のカメラを新里にかつがせた。いろいろなところでセルフタイマーを用いて5人が被写体になるような写真を撮ったが、その時、被写体の一人に加わろうとする新里の素早い動きにスプリンターの素質を見た。
 私自身、生まれてこの方、あれだけ楽しい旅を味わったことは未だない。
   
 そのカメラは数年前、神宮球場から飲み屋に移動する際、新里が落として壊した。私の最初のボーナスで買ったNikonの最高級のものであったが、新里なら仕方ないとあきらめた。飛鳥で働き続けたカメラは神宮でサヨナラしたが、全く恨んではいない。
 
 カメラと言えば、このころ私は撮った写真は自分で現像していた。8mmで撮影したものを連続写真にする技術もあった。すべて自宅の暗室でしていた。今でもクラブハウスに芸術写真(?)や連続写真は残っている。
 
 
 昨年(2010年)12月に宮崎の講習会に呼ばれ、吉永、品田と共におとずれた。
 ここ宮崎県営競技場には二つの思い出がある。
 
 一つは、私が「これが現役最後の試合」と決めて出場したのが昭和53年(1978年)の全日本実業団の会場であったこと。
 ここでその年の自己新を出すも、現役をやめることに気持ちのぶれはなかった。つまり、本格的な指導者人生のスタートを決意させた競技場なのである。
 「なぜ若くして現役をやめたのか」と齋藤にたずねられたことがあったが、2年後の地元国体に備え、スタッフの一人に私が抜擢されていたからである。実は桜井先生の推薦でその年の国体(長野)26歳にして男子監督に選ばれていたからである。
 
 もう一つは、栃木の監督就任2年目となる1979年の宮崎国体のときのことである。宮崎国体ではJUVYから3人の入賞者が出たことである。
 佐野高校3年の川田寿がハンマー投で8位、早稲田大学1年生の須藤が三段跳で5位、浪人中の新里が100mで3位に入賞した。共通4×100mRも決勝に進出した。
 この時は別名「台風国体」と言われた。大会中に宮崎を台風が直撃したのである。100mでは位置につくと指が半分水の中にあった。それくらいの雨であった。
 追い風に助けられたことはもちろんであるが、13秒8で佐野高校に入学した新里が何と10秒66で走った。 
 彼は予選が終わると宿舎から持参したドライヤーでスパイクを乾かして準決勝に臨んだ。準決勝を通過しても同じことをして決勝に臨んだ。
 今回の宮崎行きで最初に私はその時新里が使用したトイレ前のコンセントを探した。
 彼の柔軟な発想、ひたむきな態度を見て私は感動した。
 そして彼の足跡から短距離指導者としての自信も付けたのである。
 
 以下余談。
 台風のため、宮崎空港から帰りの飛行機が飛び立たないという。あわててレンタカーを借りた。鹿児島からは飛行機が飛び立つというから、「鹿児島に行こう」ということになったのである。ワゴン車には上記の3人と私のほか札幌藻岩高校の生徒2人と品田先生の計7人。目的地は新留さんという私と品田の恩人であり先輩の家である。
 鹿児島市内から見た桜島が表の顔なら、宮崎からの進路は桜島の裏の顔と言うのだろうか。台風が過ぎ去った後の空気の中から桜島を裏側から見た時の容姿に感嘆した。
 何らかの事情で裏が紹介されないことが多い世の中ではあるが、裏にも素晴らしいこともある、と感じた事を忘れられない。
 


           【佐野高校全日制勤務そして栃の葉国体を迎える】
 初めて国体の監督に推薦された年(1978年)に私は佐野高校全日制専従となった。定時制で担任をしていた生徒は今でも「私たちを置いて全日制にいった」と恨みっこなしの心を前提に、恨み節を言うことがある。 
 
 このころは勢いだけで行っていた。
 高校総体での総合優勝さえ一度も果たしていない自分には、夢と現実の区別さえついていなかった。もっとも夢が現実になっていたから余計にたちが悪い。ジュニアオリンピックの三段跳2位の須藤や宮崎国体100m3位の新里などは絵に描いたようにイメージ通りに進んでいたからなおさらであった。
 本来なら栃木の若僧を日本の一流監督が相手にするわけがない。今、当時の生意気さを思い出すと冷や汗がとまらない。穴の中に入り込みたい。穴の中に入っても汗は滴り続けるくらいである。
 それにしても、行田の大川先生、洛南の中島先生、和歌山工業の松本先生など、本当にかわいがっていただいた。
 
 そのころ、自分のしていたことで誇れる2つくらいしかない。
 一つは、北海道の品田と同じ機種のビデオ(これがまた高額だった)を購入し、互いにカセットを郵送しながら短距離のドリルづくりに精を出していたことである。このことがJUVY方式スプリントドリルの原点である。
 もう一つは、浪人中の篠原、須藤、新里などを妻の幸子とともに「奥澤商会」として登録し、実業団で暴れていた。こちらはJUVYの原点である。
 
 国体、国体と草木がなびいていた。
 強化指定校として佐野高校陸上競技部にはあらゆる意味で追い風が吹いていた。校長は岡島先生、部長教諭はOBの長野先生(長距離)、現役選手兼跳躍コーチに篠原が筑波大学を終え、佐野高校の教員として帰っていた。
 
 昭和54年入学の新入生は県南地区の一流が集まった。翌年までに全国で通用する選手にさせなければならないという思いがからみ、続々と下宿人が増えた。多い時には12人いた。
 
 そうして本番の年、昭和55年(1980年)を迎える。
 前年のジュニアオリンピック400m3位の藤生康徳、走幅跳7位の鈴木隆らに交じって天才栗原浩司が入学してきた。
 本番では藤生の6位のみに終わり、リレーも準決勝で落選した。新里、栗原を抱えながら、私は大失敗を犯していたのである。批判の矢面に立たされた。当然辞任のはずであるが、何もせずに陸上競技の指導を続けた。
 
 佐野高校の選手層の厚さは翌年、翌翌年に県高校総体総合優勝、関東高校総合優勝を成し遂げた。それは、周りの方々の協力や国体開催の影響だということに気付かずにいる愚か者の私がいた。
 
 教員になり、初めてマイルリレーを采配した時、私は選手に対して、当然走り方は知っている、と思い指示をせずに決勝に臨ませた。4走にバトンが渡るまでは3位、後続には30mの大差をつけて走っていた佐野高校であったが、アンカーが無謀ともいえるペースで走り、ホームストレートに入ってから本当に歩いてしまったのである。結果は最下位で、関東大会の切符を失った。
 それから5年。自分で走るのではなくマイルを知らない子どもたちを走らせるということを念頭に、試合の流れを読み、事前に予想した展開を伝え、その通りに走るよう指示した。これが結構当たり、昭和54年(1979年)の関東大会では展開がズバリ的中し、4位に入賞した。
 こうして、リレーの佐野高校の時代が始まるわけである。
 以下次号。
 

 
       【ちょっと興味のある話・・・佐野高校ユニフォームの変遷】
 佐野高校は何度かユニフォームを変えている。
 戦前は黒に白文字Sのランシャツに白のランパン。
 戦後もその流れだったらしいが、スクールカラーがオリーブグリーンに制定された時から、クリーム色に緑の花文字Sに緑のランパン。
 私が高校3年(昭和44年・1969年)の時に先輩の奥澤善二さんの東京急行をまねてグリーンに白の胸横抜き、白の中に赤漢字で佐野高のランシャツ、ランパンは基本白の時代が続く。
 岡山インターハイ(昭和52年・1977年)に須藤、長島、五十畑が出場した時に明るいグリーンからスクールカラーのオリーブグリーンに佐野高校の校章が入ったランシャツに、白に緑と黄のラインが入ったランパンになっている。
 途中、インターハイに出場したリレーメンバーのみが着用を許される、校章の代わりに私の書いた「佐野」+「司若印」が入ったものや、インターハイ出場の長距離選手にのみが許された白にグリーンの胸横抜きに「佐野」+「司若印」のランシャツなどがあったが、基本的には岡山インターハイから着用したものが正式なユニフォームになっている。
 
                
Vol.1 JUVY 創 設
Vol.2 理想の指導者とは
Vol.3 素晴らしき指導者
Vol.4 回顧・2005年
Vol.5 新春は箱根と共に
Vol.6 凛として颯爽と
Vol.7 眼のつけどころ
Vol.8 視点・感点
Vol.9 思い出に残る一言
Vol.10 新たなる旅立
Vol.11 JUVY誕生
Vol.12 春のスポーツシーズン到来
Vol.13 指導者としての実践力とは
Vol.14 ジュニアとシニア・その1
Vol.15 ジュニアとシニア・その2
Vol.16 わたしなりに言いたいことを…
Vol.17 「眼に見えない力」
Vol.18 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」
Vol.19 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」
Vol.20 「トーナメント・有限と無限の交差点」
Vol.21 「定石とひらめき」
Vol.22「合同練習会」
Vol.23「国民体育大会」
Vol.24「心・技・体」
Vol.25「再興」
Vol.26「神在り月」
Vol.27「修行」
Vol.28「言霊」
Vol.29「夢」
Vol.30「影響力」
Vol.31「健康」
Vol.32「我家の凜氣」
Vol.33「食」
Vol.34「インカレ」
Vol.35「2007年 JUVY TC前期総括」
Vol.36「今日まで、そして明日から」
Vol.37「国体関ブロ観戦記」
Vol.38「想いを文字で伝えるということ」
Vol.39「人間の運命について」
Vol.40「思いつくまま継走の如く」
Vol.41「広き世界」
Vol.42「スピード・スピード・スピード」
Vol.43「白と青、そして遊」
Vol.44「36−10」
Vol.45「この卯月に思ったこと」
Vol.46「スプリント」
Vol.47「”運”と”付”」
Vol.48「純粋にひたむきに」
Vol.49「オリンピックへの興味・関心」
Vol.50「ラストゲーム」
Vol.51「氣づき」
Vol.52「私見・学校というところ」
Vol.53「チーム」
Vol.54「遠征講習会」
Vol.55「蔵出し その1」
Vol.56「蔵出し その2」
Vol.57「Enjoy Baseball
Vol.58「ふるさと
Vol.59「夢舞台に向かって」
Vol.60「評価」
Vol.61(臨時増刊)「桂月・秋立つころ〜北上にて」
Vol.62「「古都・奈良でのはなし」
Vol.63「「今の若いものは・・・」
Vol.64「「朱夏の61年間と白秋2009」
Vol.65「「2009日本スプリント地図」
Vol.66「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第1回」
Vol.67「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第2回」
Vol.68「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第3回」
Vol.69「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第4回
Vol.70「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第5
Vol.71「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第6回
Vol.72「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第7回
Vol.73「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第8回
Vol.74「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第9回
Vol.75「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第10回
Vol.76「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第11回
Vol.77「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第12回
Vol.78「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第13回

Circle-JUVY General Manager OKUZAWA Yasuo