Vol.77 2010. 師走
四季の風 ―乗って、向かって、横からうけて―」
第12回 (2010年12月8日)
 

V  私の指導と反省


(1) 「佐野の陸上競技」の歩み

 佐野市の陸上競技史は「佐野高校陸上競技部史と佐野スパルタ倶楽部史である」と言っても過言ではない。以下、エピソードなども入れながら紹介しておきたい。


                         【戦前の佐野の陸上競技】
 大正12年(1923)
 佐野中学に陸上競技に熱心な梅沢繁が就任、佐藤信一先輩を母校にお呼びし講習会を開催した。
 大正13年(1924)
 3名の先輩が全国中学校陸上競技大会に出場した。
 
 佐野高校陸上競技部の創部ははたしてどちらの年がふさわしいか。
 これまで諸先輩は大正13年、西暦1924年を創部の年としているようだが、旭城陸友会としては大正12年、西暦1923年を創部としたい。
 
 大正14年4月
 51名の部員が在籍していたとの記録がある。
 昭和2年
 県下陸上競技大会(注:今で言うところの県選手権)で総合初優勝を成す。
 昭和4年(1929年)
 全関東中学(注:現在のように南北高校に分かれてはいない)で総合優勝を達成する。
 
 <奥澤の回想・1>
 昭和44年6月。その年の関東高校は埼玉県の上尾で開催されていた。その上尾の競技場ゴール付近のスタンド上段に一人の初老の紳士が100m決勝に出場する選手を見つめていたことなど知る由もなく私はレースに出場していた。初老の紳士の名は小池省吾という方であることを知ったのはレース終了後しばらくしてからである。
 関東大会の宿舎で監督の岡島宣八先生から「戦前から破られていない佐野高校記録がある。小池さんが出した100m11秒2がそれだ。昭和2年の記録だ。お前が何とか破れ!」と言われた。当時埼玉県に住んでいた小池さんに、岡島先生は、関東高校が上尾で開催されること、後輩に元気の良いスプリンターがいることを伝えていたらしい。
 100mの決勝を11秒0で走り、3位となった私が表彰を終えスタンドに上がってくると、岡島先生は小池先輩の前に私を連れて行き、丁寧に紹介した。小池先輩はスタートで失敗した私にスタートのコツを伝授してくれたり、進路についてアドバイスをしてくれたり、実に42年ぶりの佐野高校記録更新に上機嫌であった。

 
 <小池省吾の回想>
 「私は小山から佐中に入学した。1年の時は野球部から強制され、授業後練習させられるので、苦しくて逃げて帰ったこともあった。しかし、2年の時からは陸上の県下大会では一日中グラゥンドにいるようになっていた。3年から5年まで100m、走幅跳、三段跳、800mR全部優勝した。そのころから佐中の陸上競技部の全盛時代が始まった。関東大会でも100mと走幅跳に優勝、このころから中学では日本的に有名になった。佐中の先輩の喜びようはすごかった。この黄金時代、石井校長と森川教頭は極めてよき理解と応援をわれらに与えた。これが、我々の発奮と努力に結びつき、競技部の歴史にエポックを画した。
 私は野球部の選手でもあった。皆が休んでいる間にも野球をやらなくてはならなかったが、野球でも関東大会で準決勝まで進み、野球部の新しい時代も作った。
 次代をになう若き佐高のアスリートよ、先輩にもこのような栄光の時代があったことを知り、更に奮起して過去の栄光を担わんことを願う。」

 
 小池は佐中卒業後早稲田大学に進み、100m10”6、走幅跳7m18、三段跳14m64まで記録を伸ばした。また、400mRでも早稲田大学記録の42”2を樹立している。ちなみに、当時の早稲田には織田、南部、西田などのそうそうたるメンバーが在籍していた。
 
 昭和3年(1928年)
 佐野スパルタ倶楽部(佐野SAC)が初代会長根岸正のもと佐中OBを中心として創部された。スパルタ倶楽部は小野操がイギリスのアキレス倶楽部に対抗すべく命名、中学(現高校)のOBクラブ組織としては我が国で最も古いと言われている。
 
 佐野SAC所属で戦前の日本代表手としては、佐藤信一、土屋甲子雄、小野操、大野嘉夫、阿部経、大澤龍雄らがいた。佐野SAC内では日本代表選手になった者が一流選手として認められていた、と教わったことがある。国際試合の最中に佐野SAC所属選手同士で挨拶をかわすことなど、不思議なことではなかったらしい。
 
 その中でも小野が佐野の若人に与えた影響は大きかった。明治41年(1908年)5月27日生まれの小野は佐野中学から慶應大学に学び、1932年開催のロスアンゼルスオリンピック走高跳で7位(当時は6位入賞制)となった。
 
 <小野操の回想> 
「オリンピック予選では1m94まで1回で越し、97で惜しくも落としはしたが、日本代表に選ばれた。日本代表になってからの練習中に2mを越したことは2度あり、強い念願をもってオリンピックに出場した。
 試合当日の競技場は我々が神宮競技場を対象として想像していたものとは雲泥の相違で、その規模の雄大なるは、さすがアメリカと驚いたものである。国外の競技場での試合経験の少ない私など、地下道をくぐってフィールドに出た途端、スタンドを埋める人の波にのまれてしまった。競技が始まり1m90までを1回目で越したのは、優勝したカナダのマックノートンと私の2人だけで、他の選手は2〜3回目に成功する有様であった。これらの選手はまだ調子が出ていなかったからかもしれない。1m90を越したのはわずかに7名であり次の高さ94になって、さてこの高さで私はどうしたことか助走に狂いを生じてしまったのである。1回目の跳躍では踏切がいつもより遠すぎて失敗し、かってない変調にいささか焦りが出て、幾度も幾度も歩測しながら合わせてみたが何としても足が合わなくなってしまった。これが神宮ならば監督の助言により落ち着いて自己の助走を調整できたろうに、ここでは選手以外の入場を許さず、ますますあせり、遂には94の高さを失敗してしまったのである。私はこの原因を試合後ゆっくり考えてみた。これは足があわぬのではなく、1回目の跳躍に緊張しすぎて失敗したのに、助走が合わないと誤認したためで、日独対抗の時のように十分落ち着くことができていたなら、楽々94は越したものと思われる。試合後、あまりの悔しさに練習場にて94を試みたところ軽く越すことができ、97も越えた。これらのことから、私が試合当日雰囲気にのまれて失敗したことは事実であり、この一戦の不覚は終生ぬぐいえぬ、私の苦しくも悲しい想いなのである。」

 
 小野の影響を特に強く受けたのが阿部、大澤であった。
 そのころ時局は戦争へと傾き、国境を超える際には日本代表選手といえども憲兵の取り調べを受けるなど緊張した情勢の中、日本のアスリートは多くの試合に参加していた。
 世界記録が4m30のころ4m15を超え、東アジア大会で優勝していた阿部にとって戦争によるオリンピックの中止は憤懣やるかたなきものであったに違いない。むろん大澤も同様であり、大澤にいたっては戦死という悲惨な形で人生を終えることになってしまったのである。
 
 <阿部の回顧>
 「通常1試合に5本のポールを持参した。竹は京都の竹山に自ら入り、カンで伐採した。その竹に小さな穴をあけ火あぶりしてポールを作った。腰の強さや、グリップの太さは伐採した時には全く予想がつかず、自分にとって思った通りのポールに仕上がった時には、跳躍意欲が湧き、非常に感激した。当時の握りの高さは3m60前後で4m以上を越すのであるから50cmほど抜く必要がある。思い切っていくのも良いが、ポールが折れたり、砂場のピットに着地することから捻挫の心配もあり、大変苦労した。」
 
 大澤は葛生町常盤(現佐野市)に生れ、佐野中学から日本大学に進んだ。昭和15年明治神宮大会3000mSCにおいて9分25秒2の日本記録を樹立した。その翌年、陸軍軍人として南洋諸島における各作戦に出陣、昭和19年パラオ諸島アンガウル島にて敵弾にたおれ、27歳の若さで亡くなった。
 
 <大澤の妹・松崎歌子の回想>
 「4人兄弟の兄は長男であり、続いて私という関係だが、年齢が離れていたことと、父の勤めの関係で私たちは群馬県に住み、兄は一人暮らしの祖母のもとに残ったから、兄と遊んだという幼児のころの記憶はあまりない。だが兄は、長男らしいおおらかさと優しさの持ち主で、口数のあまり多くない人だったことは覚えている。
 私が館林北校に入学するころ、兄はすでに中学生で、土曜日になると私たちの家に帰ってきた。自転車の荷台に鞄や柔道着、スパイクやランニングシャツの入ったくたびれたバッグがくくりつけられていた。『おかあちゃん、俺の自転車早川田の坂を登りきるまで、グーガタグーガタ鳴りっぱなしなんだ』などと言いながら、桐の花のこぼれ散った庭で自転車を逆さに立て、ハンドルやタイヤを外して手入れをしていた姿が浮かんでくる。
 佐野中学を卒業したのは、私たちが碓氷郡松井田にいた時で、分厚い封書を持ってきて、どこの大学に進むか、ということを父母と相談していたのは、ほうぼうの学校から入学の勧誘があったかららしい。
 日本大学入ってから、箱根駅伝とか日米対抗とかの大きな試合によく出ていたのだが、学校を欠席してまでそれらを観戦に行くことを許さない、古い厳しさの父母の躾があって、私も弟も兄が選手として走る姿をグラゥンドで見たことがなかった。後年、東京オリンピックで初めて3000m障害をみて(注・出場していたのは佐野高校の後輩奥澤善二)「ああ、兄ちゃんはあんな姿で走ったのか」と感無量の思いを味わったものだった。
 次第に軍が政治の中枢に力を加え始めたころ、それらに批判的な言葉をはく危惧の目を向けた日を思い出す。それでも、幹部候補生になり、少尉の軍装を身に包んだ姿は立派だった。23〜24歳の兄だ。
 関東軍が南の海に回ったらしい話を聞くころから便りが途絶えた。
 昭和22年の班雪(はだれゆき)が庭に残る日、兄は還ってきた。
 白木の小さな箱の中には、珊瑚礁のかけらが二つ入っていた。」
 


                   【SAC所属選手の活躍の跡(戦前編)】
 全国大会優勝者及び日本代表のみを記載した。
 なお、◎は日本新記録、◆は日本代表である。
 
 1918 佐藤 信一 日本選手権 三段跳12m45 優勝
 1919 佐藤 信一 日本選手権 三段跳12m62 優勝
 1920 佐藤 信一 日本選手権 三段跳12m66 優勝
     佐藤 信一 極東選手権 十種競技    2位◆
 1921 佐藤 信一 東西対抗   三段跳13m45優勝◎
 1922 佐藤 信一 極東選手権 三段跳     4位◆
     佐藤 信一 極東選手権 十種競技    4位◆
     佐藤 信一 日本選手権 三段跳13m08 優勝
 1923 佐藤 信一 パリ五輪  役員として参加◆
 1927 土屋甲子雄 日本選手権 1500m4’07”0優勝
     土屋甲子雄 極東選手権 1500m     2位◆
     土屋甲子雄 極東選手権 10000m     3位◆
 1929 小野  操   神宮大会  走高跳1m83  優勝
      小野  操  日独対抗  走高跳1m90  優勝◆
 1930 小野  操 日本学生  走高跳1m94  優勝
      小野  操 極東選手権 走高跳1m91  3位◆
 1932 小野  操 日本選手権 走高跳1m89  優勝
     小野  操  ロス五輪   走高跳1m90  7位◆
 1933 阿部  経 満州対朝鮮 棒高跳3m85  優勝◆
 1934 大野 嘉雄 極東選手権 400mH     ◆
 1936 阿部  経 大奉撫対抗 棒高跳4m00   優勝◆
 1937 大澤 龍雄 日米対抗   3000mSC     優勝◆
 1939 大澤 龍雄 神宮大会   3000mSC9’50”8 優勝
 1940 大澤 龍雄 日本学生   1500m4’07”4   優勝
     大澤 龍雄 神宮大会   3000mSC9’25”2 優勝◎ 
     阿部  経  東亜大会   棒高跳3m90    優勝◆
 
 <奥澤の回想・2>
 佐野高校を指導するようになった私を心から応援してくれた小島忠弘先輩は小山から佐野に通いながら競技を続け1937年のインターミドル110mHにおいて17”0で3位に入賞した。中学卒業後陸上競技から遠ざかったので日本代表にはなっていないが、栃木の陸上のために貢献した。印刷会社経営の小島先輩が県内競技会のプログラムは一手に引き受けていたのである。  
 私が佐野高校の監督となり県高校総体で初優勝した昭和56(1981)年、マドロスパイプをくわえながら、「奥澤、頑張ったな。俺たちの時代より上になったよ」と諭すように話していただいたことが忘れられない。本当に佐野高校を好きだったのだと思う。
 小島先輩と同期の私の親爺(走高跳)でさえ「彼は雲の上の人だった」という。親父は同級生の小島先輩を今でも「小島さん」と呼んでいる。それもそのはず、ハードラーの小島先輩には走高跳でも一度も勝てなかったらしい。

 
 <奥澤の回顧・3>
 若僧の私に佐野SAC理事長の役を与えてくださったのは当時佐野SAC会長の岡島宣八先生であった。
 理事長が倶楽部運営の要であるが、運営にあたっては先輩諸兄の意見を反映しなければ総会や懇親会で冷や汗をかくことになる。顧問の小野先輩(いや小野さんには大をつけなければ叱られる。言い直し。)小野大先輩は「奥澤はいるか」と佐野高校の体育教官室に入ってくるなり、厳しい要求を出して行かれた。いつ来るかわからない。忘れたころに来る。昨日来たから今日は来ないだろうなどと思って油断していると、「言うのを忘れていた。」などとやってくる。褒められたことは、ない。
 岡島先生は当時佐野高校校長、県高体連会長の要職にあったが、随分とかわいがられた(?)らしい。「オリンピック選手は我々とは違うのだよ」と笑いながら私を諭した岡島先生の顔を思い出すたびに、オリンピックという響きある言葉に、時には本人はもとより周囲の者も騙されてしまう、ということはそのころ得たものである。

 
 佐野高校からは4人のオリンピック代表が生まれている。戦前二人、戦後二人である。  
 岡島先生が高校に入学した私に「佐野高校で陸上出世した人は、苗字の最初が『お』なんだ」といって私にプレッシャーをかけた。確かに戦前の小野操、大野嘉雄、大澤龍雄、戦後の奥澤善二、岡部正英、等「お」から始まる先輩ばかりである。
 しかし、私にはオリンピックも日本記録もまったく関係なかった。そのかわりオリンピック選手に関われたことが三度もある。
 現役選手としては期待に添えませんでしたが、これで、ご勘弁願います、岡島先生。
 

                     【戦後の佐野の陸上競技(前編)】
 この項、戦後と言っても期間を限定しなければならない。
 そこで、この項は「私の指導と反省」であることから、私が教員になるまでを「戦後の佐野の陸上競技(前篇)」としたい。
 
 昭和20年8月15日、敗戦国日本は民主的平和文化国家を目指し再出発した。その中にあって、スポーツの使命は荒廃と混乱の中から生きる希望と新たな活力を生み出すべく、国民体育大会を中心として雄々しく第一歩を踏み出した。なかでも陸上競技は用器具の不備な状況でも行えることから競技としての発展には目覚ましいものがあり、佐野においても例外ではなく、戦前からの伝統を引き継がんと、多くの若人が先輩の指導と自らの精進で陸上・佐野の名を高めるように日々精進していた。
 そうして1947年、遂に佐野スパルタ倶楽部は小野操を戦後最初の会長として再興したのである。
 

          【SAC所属選手の活躍の跡(戦後編、1973年まで)】
 戦後に関しては全国大会入賞者まで幅を広げて記載してみたい。戦前編同様、◎は日本(高校)新記録、◆は日本代表である。なお、多くの入賞がある場合は代表的な活躍を記載した。
 
 1951 勅使河原博 全国高校   200m   23”5  3位
 1952 江原 広子  全国高校   80mH   13”1  6位
 1953 勅使河原博 日本学生   100m   11”3   3位
     島田  博  全国高校   110mH   17”0  6位
 1956 桑田  功  全国高校   棒高跳   3m50  5位
 1957 岡部 正英  全国高校   1500m   4’06”5 5位◎
     岡部 正英  東西対抗    5000m  15’47”4  2位
 1958 奥澤 善二  国体      3000mSC 9’27”8 2位
 1959 奥澤 善二  日独対抗   3000mSC 9’13”2 2位◆
     石川 昭義  国体      やり投    56m77  3位
     野口 義雄  日本選手権 十種競技  5544点 2位 
 1962 奥澤 善二  日本選手権 3000mSC 8’58”4 優勝
     奥澤 善二  アジア大会  3000mSC  9’06”5  3位◆
 1964 奥澤 善二  倉吉記録会 3000mSC 8’45”4 優勝◎
     奥澤 善二  東京五輪   3000mSC 8’50”0   ◆
     江田恵美子 全国高校   走幅跳    5m52  6位
 
 昭和27年1月13日。第2回大澤龍雄追悼駅伝大会(現在の大澤駅伝)中学の部で、田沼〜吉水間を走る小柄な少年がいた。不安そうな眼差しで中継所にいたその少年は襷を受けとるやいなや脱兎のごとく走りだした。あきらかなオーバーペースの彼はふらつく足で走り続け、粘りに粘り、耐えに耐えた。襷を渡した後の爽やかな表情は満足感でいっぱいのように見えた。しかし、その顔を見た人々の誰がこの少年の未来が洋々たるものであることを想像できたであろうか。
 奥澤善二13歳。初駅伝であった。
 奥澤は佐野高校〜東洋大学〜東京急行と所属が変わるたびに素晴らしい活躍をした。高校時代は関東高校5000m6位であったが、大学入学後は3000mSCを中心に活躍。同種目で国体、インカレで優勝。卒業後はアジア大会3位、日本記録保持者として東京オリンピックにも出場した。オリンピックは予選5着で残念ながら決勝進出はならなかったが、その健闘は多くの方々から称えられた。
 奥澤が初めて駅伝を走ったころ、佐野には中・長距離に素晴らしい人材がひしめきあい、第2第3の大澤たらんと夢を膨らませていた。その中でも島田貞雄(慶應大学時代箱根駅伝出場・現第一酒造会長)、新井繁司(佐野高校時代全国大会出場・現新井商会社長)、岡部正英(佐野高校時代1500mで日本高校記録樹立・現佐野市長)、奥澤の競り合いは見る者に強烈な印象を与えていた。
 翌昭和28年には奥澤と岡部が大澤駅伝中学の部でそれぞれアンカーを任された。吉水駅前より佐野市役所まで互いに譲らず熾烈な3位争いを繰り広げたことは50年以上たつ今も語り草になっている。
 1500mで日本高校記録を樹立し、高校東西対抗5000mで横溝三郎と激しく競り合い2着になった岡部であるが、家庭の事情で進学も実業団も断念し陸上競技の世界から静かに幕を引いた。高校時代の岡部といえば仕事優先、昼休みに練習、夜間の授業が終わってからという細切れ練習をしながら全日制の生徒と戦った夜間定時制の生徒である。
 そのような岡部も陸上競技は忘れることができず、私の中学2〜3年のころは母校佐野市立城東中学校のコーチとしてグラゥンドに顔を出し、私どもの面倒をみてくれた。
 その後政界に転身し、市議〜県議、そして現在は佐野市長である。
 もしも、今の時代に生れてきていたならば、前述の四人が箱根駅伝で競い合っていたかと思うと・・・。考えるだけでめまいがしてくる。
 

                      【縁とは奇なもの不思議なもの】
 戦前の佐野の陸上競技を振り返ってみると土屋甲子雄という人物が活躍していた。
 彼は日本医科歯科大学で文武両道に励み、卒業後は当時陸上競技の盛んな佐野で歯科医を開業し、佐野中学のグラゥンドで走りながら日本一になった。
 現役生活を終え、当時の朝鮮にわたり歯科医をしていたころ、そこで中学生だった中村清(ベルリン五輪1500m代表、後に早稲田やSB食品の監督となる)と出会い多大な影響を与えた。中村は「土屋に会うことがなければ陸上競技はやっていなかった」とまで言う。
 大澤龍雄という悲運の名ランナーも佐野の出身であるが、彼が作った3000mSCの日本記録は11年後に高橋進(マラソンの君原健二の指導者)に破られた。
 しかし、その後中村が東京急行時代に指導したやはり佐野出身の奥澤善二が日本記録を奪い返す。
 そうして中村は須藤宏、川田寿、川田浩司らの佐野高校卒業生を早稲田時代に指導したにとどまらず、縁あって私にも多大な影響を与え、川越学(セカンドウインド)や金哲彦(日本ランナーズ)などとも引き合わすことになる。
 縁とは奇なもの不思議なものである。
 仮に佐野の陸上が盛んでなければ土屋は佐野で陸上競技を続けていただろうか、そうなると中村にあっていたかどうかもわからない。中村が土屋に会っていなければ陸上はやっていなかったろうし、そうなれば奥澤は東京オリンピックに出場していただろうか。そんなことより、今の早稲田の駅伝は…。きりがないから、この辺でやめるが、縁とは誰がどこで結びつけるものなのか。運とは偶然ではなしに必然なのか。
 人間が縁とか運を大切にしないと歴史への冒涜につながるのではないかと思う。
 
 このような縁や運が生まれたのにわけがある。
 みんな陸上競技が好きで、佐野で一緒にやってきたのだ。
 一緒にやったという事実が流れに入り込む一滴となる、すなわち歴史を作ってきたのである。
 今という時間、ここという場所を大切に生きることだ。
 大切に生きていれば出会いがあり、縁が湧き、運命という大河となって流れていくのだ。
 
 私は今呼ばれる所にはどこにでも行って自説を展開している。
 それは、出会いから生まれる縁、出会いで開ける運というものが流れる大河をもう少し深く広くしたいからに他ならない。
 
 佐野の陸上競技の歴史を紐解きながら、私が最も学んだことである。
 
 佐野で陸上競技を始めた人間が佐野の陸上競技を否定することほど寂しいことはない。
 
 

 今回は以下の文献を参考、引用しました。
 50周年誌(栃木陸上競技協会編)
 佐野の体育(佐野市体育協会編)
 80年誌(栃木県立佐野高等学校編)
 
                
Vol.1 JUVY 創 設
Vol.2 理想の指導者とは
Vol.3 素晴らしき指導者
Vol.4 回顧・2005年
Vol.5 新春は箱根と共に
Vol.6 凛として颯爽と
Vol.7 眼のつけどころ
Vol.8 視点・感点
Vol.9 思い出に残る一言
Vol.10 新たなる旅立
Vol.11 JUVY誕生
Vol.12 春のスポーツシーズン到来
Vol.13 指導者としての実践力とは
Vol.14 ジュニアとシニア・その1
Vol.15 ジュニアとシニア・その2
Vol.16 わたしなりに言いたいことを…
Vol.17 「眼に見えない力」
Vol.18 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」
Vol.19 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」
Vol.20 「トーナメント・有限と無限の交差点」
Vol.21 「定石とひらめき」
Vol.22「合同練習会」
Vol.23「国民体育大会」
Vol.24「心・技・体」
Vol.25「再興」
Vol.26「神在り月」
Vol.27「修行」
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Vol.29「夢」
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Vol.31「健康」
Vol.32「我家の凜氣」
Vol.33「食」
Vol.34「インカレ」
Vol.35「2007年 JUVY TC前期総括」
Vol.36「今日まで、そして明日から」
Vol.37「国体関ブロ観戦記」
Vol.38「想いを文字で伝えるということ」
Vol.39「人間の運命について」
Vol.40「思いつくまま継走の如く」
Vol.41「広き世界」
Vol.42「スピード・スピード・スピード」
Vol.43「白と青、そして遊」
Vol.44「36−10」
Vol.45「この卯月に思ったこと」
Vol.46「スプリント」
Vol.47「”運”と”付”」
Vol.48「純粋にひたむきに」
Vol.49「オリンピックへの興味・関心」
Vol.50「ラストゲーム」
Vol.51「氣づき」
Vol.52「私見・学校というところ」
Vol.53「チーム」
Vol.54「遠征講習会」
Vol.55「蔵出し その1」
Vol.56「蔵出し その2」
Vol.57「Enjoy Baseball
Vol.58「ふるさと
Vol.59「夢舞台に向かって」
Vol.60「評価」
Vol.61(臨時増刊)「桂月・秋立つころ〜北上にて」
Vol.62「「古都・奈良でのはなし」
Vol.63「「今の若いものは・・・」
Vol.64「「朱夏の61年間と白秋2009」
Vol.65「「2009日本スプリント地図」
Vol.66「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第1回」
Vol.67「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第2回」
Vol.68「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第3回」
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Vol.70「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第5
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Circle-JUVY General Manager OKUZAWA Yasuo