Vol.74 2010. 長月
四季の風 ―乗って、向かって、横からうけて―」
第9回 (2010年9月8日)
 

                                   
U  スポーツと感動
  

 (3)「せる・させる」からの脱却
 
 
                             【回顧1976年7月】
〈回想〉
 「篠原に着替え終わったら定時制の職員室に来るように言ってくれ」
と、6限目終了のチャイムと同時に教官室前で陸上競技部員を待っていた奥澤は、掃除に向かう陸上競技部員のSを見つけるなりそう言った。
 「はい、わかりました。」
 Sは部室にカバンを置いてから庭掃除に向かうつもりだった。毎日のことである。
 しかしSには含みがある。清掃分担区域担当の教員が来なければ部室にいる、つまりさぼるのである。グランド整備は欠かさずやるのに、清掃はよくさぼる。グランド整備はやらないと罪悪感さえおぼえるが、清掃はさぼることで爽快感さえ生まれる。そんなことをSは何となく感じていた。
 その日もSは部室の窓から外を見ながら担当教員の動向をうかがっていたが、もう来ない、と確信するやいなや着替えに入った。
 練習着に着かえながら、ふと(今日の練習はなんだろう)と考えた。そう考えながらも、段ボール箱の底に隠してある危ない雑誌に目を移す。着替え終わったSは、その雑誌を出して見始めた。しかし、ボケッと見てはいられない。いつ奥澤が音もなく表れ、「おい、何をしているんだ」と言って取り上げられるかもしれない。取り上げられるということは部員の秘かな楽しみを奪いとられることになる。当然、彼らからしばらくの間文句を言われることになるわけだ。
 いつの日だったか、練習が終わってから誰とはなしに、「取り上げられた雑誌を奥澤はどう処分しているか」と部室の中で大騒ぎしていたら、いきなり部室の扉があき、「いつまでうるせえぞ。早く帰って勉強しろ。」
 と言われた。扉を開けたのは奥澤だった。聞かれたか、と思うと、その場にいた部員は互いに血の気が引くのがわかった。
 その日から、部員の中で“とろい”者は一人で危ない雑誌を見ることはしない、という暗黙のルールが誕生した。
 しばらくすると、真面目に清掃をしてきた篠原が「S、また掃除さぼり?俺も庭掃除になりてーよ。A太郎の野郎、竹刀持ってきたよ。」と言いながら部室に入ってきた。
 Sは篠原の話に乗ることもなく「先生が呼んでた。定時制の職員室だって。」と言いながら雑誌をもとの場所に隠した。

 「失礼します」
 全日制の職員室に入るのさえ抵抗があるのに、定時制の職員室には知っている先生は一人しかいないから篠原は緊張しっぱなしだ。(やだなー)と思いながら篠原は覚悟を決めて入室した。そんな篠原の気持、つまり高校生の心理を奥澤は忘れている。
 奥澤の高校時代にも定時制に陸上好きな中山という教員がいた。その中山に「夜間照明の鍵が借りたきゃ俺んとこに来ればいつでも貸してやるぞ」と言われ、最初のうち奥澤は自分で取りに行っていたが、そのうち何となく嫌になり下級生に行かせていた。
 そんな高校生の気持ちなどはとうに忘れている、ということなのである。
 
 「おう、篠原か。こっちにこい」と職員室に入ってきた篠原を見て、奥澤が声をかけた。奥澤の机の脇まで来た篠原は「こんにちは。今日の練習は何ですか」と尋ねる。練習前に呼ばれた理由はそれしかないことを篠原はわかっている。
 「今日も定時制の打ち合わせが終わる5時15分に本練習開始だ。今日は300mを5本。休みは10分だ。俺が10m後ろから走り始めるから、お前ら290mだ。俺に抜かれないように、最後は一斉にゴールするように走れ!きちんと伝えろよ!」
 
 奥澤はこのような伝え方を無茶とは思っていない。部員からしたらまるで奥澤の“かませ犬”なのだが、奥澤は(俺と一緒に走って強くなれないはずがない)と思っているから厄介だ。
 
 練習が始まる。
 奥澤は10m後ろから走り始めるのだが走力があまりにも違いすぎる。200m21秒台と24秒台である。奥澤は後ろから行って追いつくと、追い抜きざまタッチ(部員たちはあくまでも“げんこつ”もしくは“パンチ”と認識しているのだが…)していく。
 篠原はこれを上手にかわす特技?を持っており、今日もタッチされずに済んだ。
 「逃げるのなら、もっと速く走れ」と奥澤が無茶苦茶な事を言う。皆がどっと笑う。
 そんなふうに練習が進み、練習が終わる。
 終わると奥澤が言う。
 「明日、俺は出張で練習に出られない。明日は100m30本の快調走!この間入った新里とかいう奴は半分でいいかな。」
 そうして、奥澤は定時制の職員室に戻っていく。
 
 全部が全部、毎日が毎日、こんなやり方というわけではないが、これが教員2年目の奥澤の陸上競技部への対応であった。
 よくこんなやり方で強くなったかと思うと不思議で仕方がない。
 
 小学校時代に野球をやっているころからあらゆる計画を奥澤は一人で立ててやってきた。
 中学1年で陸上を始めたが、スケジュールはなかった。3年生は勝手にやっていた。1年生とはあまりにも体力差がありすぎた。2年生にやる気のある人はいなかった。
 2年になったときは1年生の分も含めて奥澤がすべてスケジュールを立てた。それにボランティアコーチの中田さんのアドバイスが効果的に働き、素晴らしい陸上競技部となっていった。誰も文句などは言わなかった。
 高校に入学しても流れは同じであった。1年の時は3年生のスケジュールをこなした。
 しかし、ここでも7月になると2年生が作ることになったが、まるでやる気のないスケジュールに思えた。仕方なしに、奥澤は自分で週計画を作成し、監督の岡島にチェックしてもらう方法をとった。これには2年生は面白くなかったらしく、奥澤は「生意気だ」と狙われていた。そんなことは気にも留めず、このやり方で3年のインターハイまで貫いた。
 大学でも1〜2年のころはブロック長(4年生)がスケジュールを作っていた。隠れて煙草を吸っているような上級生でも練習計画に従うしかなかったが、自主練習や土曜や日曜の午後の練習は自分で計画し実践した。
 3年になると短距離ブロックでまともに活動している4年生が1人になってしまったため3年の意見も随分聞いてもらった。3年といっても奥澤と品田の意見だったかもしれないが、ブロックはまとまった。
 その流れは奥澤、品田の代が4年の日本インカレが終了するまでの2年間続いた。400mブロックは3年生の松本の意見を積極的に取り入れた。
 
 振り返れば、これまでのスポーツ活動の大半を奥澤は自分でスケジュールをたててきた。緻密に日誌をつけ、その日誌を確認しながら…。
 だから、教員になれば自分のスケジュールでやらせる。それは奥澤にとっては当然のことであった。
 
 奥澤にとって最初の変化が見え始めたのは、それから4年後。新里が浪人し、いやがうえでも練習のパターンを変えなければならなくなった時からである。
 走る量が少なくても強くなる方法を模索した。短距離の新しい練習方法を開拓しようと必死であった。そのような練習方法がよかったのか、走る量が少なくなったため常にフレッシュというのが良かったのかはわからないが、とりあえずそれなりの効果を収めた。
 新里は浪人中のため自分の出来る時間に練習を行った。25年後の齋藤も同じである。高校生とは違う。すべて自己管理である。
 そのことは新里を除いた部員に対してはドリルを“やらせる”ということでもあった。
 


                           【回顧1983年10月】
 走れ!走れ!という練習からの脱却は新里の浪人時代が起点である。時に1979年。奥澤はその年現役を引退した。
 練習に対する考え方を変えた当初、すなわち練習がドリルとスプリントの組み合わせになったころ生徒は戸惑ったが、慣れるのに時間はそれほどかからなかった。どんどん新しい練習方法が創られ、そして試された。
 面白いほど結果が出た。短距離ブロックは走るたびに自己新を連発した。
 1979年の新里の国体3位だけではない。翌年はマイルリレーが佐野高校としては初めてインターハイに出場した。県内でも短距離の佐野高校とおだてられはじめた。多くの学校が練習や合宿にくる。私は練習方法を隠さず紹介した。勉強会も積極的に行った。中学校の先生方も同調してくれ、積極的に中学生を受験させてくれるようになった。
 
 そのような右肩上がりの中で最も顕著だったのは、筑波大学時代に100m11秒4が最高だった篠原修が佐野高校の教員として栃木に戻り、1年間スプリントドリルを中心の練習を積むことによって10秒9で走ったことである。
 「大学で何をしてきたの?」と奥澤は皮肉交じりの冗談を何度も言って篠原を困らせた。
 佐野高校時代インターハイに出場できなかった篠原であるが、筑波の水があったのか、三段跳で15m50を跳び、一般論としては学生競技者合格の部類で卒業してきた。
 しかし、10秒9で走ったその年16m08を跳躍したのである。
 
 この篠原の薫陶を受けたのが栗原浩司だった。
 栗原は定期試験のたびに強くなっていった。定期試験一週間前から終了まではフリーにするのが佐野高校の約束事となっている。
 「フリーになると栗原は徹底的に勉強ではなくドリルをやっている。」と篠原が笑いながら教えてくれた。
 もちろん篠原も一緒にやっていた。高校1年生の栗原に比べれば、筑波で陸上競技を学問として体系づけてきた篠原にとってははるかにドリルのポイントを理解することは早かった。
 ちなみに、栗原は高校3年のインターハイ200mで2位、国体は100mで優勝した。大学1・2年の日本インカレで100mを2連覇したが、3〜4年は勝てずに卒業。栃木に戻った2年後にはソウルオリンピックに出場した、そんな選手である。
 
 いかに、練習方法や内容が変化しても、高校生の計画は相変わらず奥澤が立て、それをやらせる、ということに変わりはなかった。
 動作のチェックはどんどん激しくなり、つきっきりで動きを矯正した。補助運動はもとより補強運動の技術性を高めることにもエネルギーを費やした。
  
 栗原の1年下に島田嘉紀という文武両道を貫くということに関してはお手本のような生徒がいた。頭脳明晰、実行力抜群、しかもコミュニケーションがしっかりとれる。彼との出会いは奥澤の指導概念を大幅に変えた。
 島田も基本的には奥澤の計画にそって練習をすることに違いないのだが、不思議なことに島田とは練習内容を確認し合うことが多かった。
 1983年の名古屋インターハイで島田は400m4位、4×100mR(3走)2位、4×400mR(4走)3位と活躍した。
 
 インターハイが終了した。
 島田がJAPAN Jr.代表で遠征している間、佐野高校2年連続国体優勝を狙う奥澤は、徹底的にライバルを調べ上げ、島田の相手を宮崎の佐藤公一ただ一人に絞り、そのためには何をすべきかをまとめていた。
 
 遠征から帰った島田に、奥澤はいきなり話しはじめた。遠征の結果を聞くよりさきに。
 「国体では高橋(インターハイチャンピオン)は来ないよ。絶対に佐藤が来る。佐藤のレース展開を調べて、どのようなペース配分で来るか、それに対応するための練習は何がよいか考えておいた。おそらく、知的な佐藤はインターハイの失敗(5位)の反省をもとに前半逃げを打ってくるのではないかな。同僚に小中富というスピードランナーもいるし、彼と一緒にスピード練習を中心に仕上げてくるような気がする。」
 「えー、そんなことわかりますか?」
 「俺にはそう見える。未来予測だ。信じなければ練習内容も信じないということにつながる。予測はこうだ。前半から飛ばすであろう佐藤を350mで捕まえ、そこから抜け出すことが島田の勝ちパターンかなと考えている。」
 「わかりました。佐藤を仮想ライバルとして練習します。」
 「よし、それでは9月中ごろまではスピードを意識した練習に徹しよう。直線に入ったら大きく離されていました、では追いつくのが精いっぱいで、追いついたところがゴールってことになっちゃうからな。前半無理なく走るためにも200mのスピードを上げよう。まだ、間に合う。その後は例の練習で追い込むのはどうだ。」
 「だんだんイメージが鮮明になってきました。そのやり方で勝負してみます。」
 
 奥澤は9月中旬に開催される2日間を、国体を目指す練習過程におけるターニングポイントととらえ、ある冒険をすることにした。
 それは、『土曜の夜に国立競技場で開催されるナイター陸上の4×100mRに招待されている。これに出場し、終了後最終列車でもよいから宇都宮に戻る。その晩は常宿の伊沢旅館に泊まり、翌日曜日は三部対抗の200mで自己新を狙う』というものであった。
 さらに、『国体の400mは2日間で行われる。インターハイとは違い特殊な体力を必要とする。二日連続してぎりぎりの力を出すための“回復力”を中心に据えた体力を養うことが不可欠だ。今年になってから島田は200mを一度しか走っていない。一日目に100mを最高スピードで走ることにより筋肉痛が出るような状態をつくり、翌日忘れている98%スピードで走る。2日間とも質の高いレースとなるはずだから、ハイスピードを要求される佐藤対策としては最高のテストとなる。』という仮説が奥澤の思考回路で計算されていた。
 結果は一日目のリレー(3走)をしっかりと走った。二日目の200mでは初の21秒台を出した。しかも21秒4と自己記録を1秒近く上回る大幅なものである。
 余談だが、この競技会でまさか島田が県高校記録を出すとは思っていなかった審判は、「記録が良すぎるのではないか」と疑い疑問計時とした。その結果、手動計時が採用されたのである。
 何かしっくりこなかったが目標は国体優勝である。この2日間の疲労を抜き、いよいよ最後の仕上げに移った。
 
 佐野高校でマイルチームが“例の練習”と言っていたものは非常にハードなものである。
 国体2週間前のある日、島田はその“例の練習”をするということになっていた。その日を含めあと2回“例の練習”を行い、その後は調整に入るという青写真である。
 あいにく予定の日は朝からの雨の影響で校庭が使えそうもなかった。そのころは宇都宮にしかオールウェザーの競技場はない。時間的なことを考えても宇都宮に行き練習するということは無理である。  
 放課後教官室に島田を呼んだ奥澤は尋ねた。
 「どうする島田?」
 「計画を変えたくないので何とかやりたいのですが。」
 「ちょっと校庭では無理だな。道路でやるか?」
 「やりましょう。」
 そうして、“例の練習”は道路で行なわれた。島田はアスファルトの上で“例の練習”を行い、強烈な強さを奥澤にアピールし、その日の練習を終了した。
 (よし、あと一回だ)奥澤は飛び跳ねたい衝動を抑えるのに苦労した。それくらい島田は順調にきていた。その日までは…。
 翌日、呼んでもいないのに練習前島田は教官室にやってきた。
 「先生、シンスプリントが出てしまった気がします。」
 奥澤は愕然としながら「大丈夫だよ。“例の練習”はこれで終わりにしよう。一回くらいやらないでも今までの貯金があるはずだ。」と努めて冷静に対処したが、昨日の気持ちとは天国と地獄といったところであった。
 こうして、もう一回、“例の練習”をやることなく国体に乗り込んだ。
 結果は2位。優勝は宮崎の佐藤であった。
 試合が終わってから島田は以下のような短いコメントをした。
 「“例の練習”がもう一回できていれば、もう少しきわどいレースになったと思います。」
 
 このころから奥澤にも、選手によって個に応じた指導がぼちぼちできるようになってきた。この時31歳。
 島田が2位に敗れた国体では『新里(明治大学4年)・栗原(筑波大学1年)・相良(佐野高校1年、この国体100m8位)、原(佐野高校3年、この年インターハイ100m8位)』のオール佐野高校で臨み決勝に進出7位に入賞した。
 また、この年の佐野高校はインターハイ4×100mRと4×400mRで同一大会二種目入賞を3年連続して成し遂げた日本唯一の高校になる1年目の年でもあった。
 
 しかし、奥澤にとって「せる・させる」からの脱却が完全にできるようになったわけではなかった。
 


                             【回顧1991年5月】
 1990年4月、奥澤は栃木県立田沼高等学校に転勤となった。田沼高校は400mのトラックが3個もとれるような、敷地だけは馬鹿でかい学校であった。野球部とはライトの守備付近でわずかばかりトラックと交わる程度である。
 それでも、奥澤は初めて田沼高校を訪れた時に(何てグランドの配置が悪いのだ。最初に設計した方の気がしれない)と思った。ちょいとひとひねりすれば全部の部が他の部と交わることなく活動できるはずである。野球部もトラックと交わるどころか、公式戦ができるような球場が作れたはずである。しかし、今から配置を変えるわけにはいかない。
 そんなことより、家からは車で10分弱、自転車でも20分はかからない。もう一度この学校でやり直し、定年までには全国制覇をしたいなどと考えながら新任者の打ち合わせに向かった。
 田沼高校の校長は大学の先輩ということもあり、全体打ち合わせが始まる前にあいさつに行くと「下宿させてまでして強化はしないでくれ」と軽いジャブというより、強いストレートを見舞われた。
 奥澤はやる気が失せただけでなく、ここで自分の人生が変わっていくような気がした。
 
 田沼高校に転勤した時には、大野功二という生徒がただ一人奥澤の家に下宿していた。もちろん佐野高校の生徒である。大野の実家は黒磯にあり、奥澤が転勤したからといって家から通学することは不可能であった。
 中学時代は110mHで全国大会に出場していたが、奥澤は初めて大野を見た時に、将来日本のトップスプリンターになる、と確信していた。当時100mでは県大会で上位に入ったことはなかったらしいが、体の線を見てこのような選手を一度は指導してみたいと、奥澤は一目惚れをしていた。
 自宅からの通学が可能な高校の有名な指導者はハードルでの活躍を夢見、何度も勧誘したらしい。しかし奥澤はたった一度だけ黒磯に行き「短距離で世界へ飛び立とう」と口説いた。後日、奥澤が大野から聞いたところによると「もともとハードルは嫌いだったんで、ハードルをやらせようとしている学校には行く気はありませんでした。自分は短距離をやりたい。短距離をやるなら佐野高校だ、と思っているところに先生が来たから佐野高校に決めたんです。」ということであった。
 
 多くの部員が奥澤の“ふいてん”(予告なしに転勤したり、させられたりすること)に動揺したらしいが、大野は(どうせ先生の家から通うんだから)と平静を装っていたという。 
 事実、奥澤の家に下宿している大野にとって田沼高校で練習して帰ること自体それほど時間的にロスはなかったから、なおさら気にはならなかったのである。
 奥澤の転勤当初は毎日佐野高校の陸上部員が田沼高校に練習にきた。
 しかし、一か月二か月と経つうち田沼高校で練習する佐野高校の生徒は少なくなり、遂には大野一人になった。聞くところによると顧問が「行ってはいけない」と言うらしい。 
 もう少し詳しく調べると、校長の厳命であることがわかった。転勤前にその校長が、
 「栃木陸協の某幹部に奥澤先生の転勤の是非について聞いてみたが、佐野高校でも田沼高校でも栃木陸協には影響はないそうだ」と言っていたことを奥澤は思い出していた。
 (さもありなん)と思い、以後田沼高校にいる間は佐野高校とは縁を切る決意をした。
 
 それでも、大野だけは毎日田沼高校にやってきた。
 「大丈夫か」と聞くと、「見つかると顧問に殴られます」と言うではないか。
 「佐野高校でやるか」というと、「いいえ、先生とやります」と答えた。
 奥澤の家の3人の子どもはもちろんのこと、田沼高校の陸上競技部員もそんな大野が大好きで、大好きでたまらなかったようだ。学校では部員が「大野さん、大野さん」と、家に帰れば子どもたちが「功二さん、功二さん」と言いながら、ついて離れなかった。
 
 2年の関東大会は200m7位でインターハイ出場はならなかった。宮城インターハイには奥澤の車で出かけ、佐野高校OBで仙台大学の学生の部屋にもぐりこみ悔しさを味わった。
 
 3年になると、宇都宮東高校の荒川という選手が大野の前に立ちふさがった。もっとも彼は200mの中学日本一、前年の国体少年B100mのチャンピオンである。学年は下でも大野より強いことに不思議はない。
 5月の高校総体では200mで一矢報いたものの、県内陸上関係者の目はすべて荒川に向いていた。
 
 中間試験も終わり、田沼高校での練習が再開された。
 (日本ジュニアで勝ってアメリカに遠征し、世界を体験させたい)という気持ちが胸に募り、奥澤の闘志はメラメラと湧いていた。
 
 ここぞという日、奥澤はとっておきの練習を試すことにした。
 朝飯を食べながら奥澤は、
 「功二、今日は300mを3本やろうと思う。3m程度の助走付きで35秒以内で行きたいな。休息は自由だ。心も体も35秒以内で走れると感じたら、俺に言え。そうしたら次のセットに行く。そんな変わった練習だ。考えている以上にきついかもしれないな。」と言った。
 「わかりました。一本目は行けると思うんですが、2本目、特に3本目はどうなりますかね。ちょっと想像がつきませんね。学校で作戦を練っておきます。」と大野は答えた。
 
 放課後大野が田沼高校に到着した。
 奥澤はもう一度練習について話した。
 「こんな練習する高校生は今の日本でお前しかいないよ。何も条件をつけずに300mを3本走るなんてのは、今日の練習に比べりゃ楽な練習だよ。そんなのどこの学校でもやっている練習だ。そりゃー、どの学校でも休息時間を設定しているだろし、ちょっと気が利く学校ならタイムも設定していると思う。これまでウチもそうだったろう。でもそれじゃ成長しないんだ。こんな土のグランドで35秒以内という練習もすごいもんだと思うけど、そんなことより自分の心と身体と相談しながら自分の心身を完全にコントロールできるようになって欲しいんだ。絶対にクリアーできると判断したら行くなんて、お前の総合力を試されているわけだから、考えただけでウキウキしてくるだろう。いいか功二、今日の練習はすべて自分の責任でやらなければならないんだぞ。失敗したら今日の練習は全く意味がなさなくなっちまう、というより後退しちまうんだよ。」
 「わかりました。1本ずつ挑戦していきます。」
 ハイクォリティの練習に加え、自分の心と体を客観的に見る能力を養い、スプリンターとしての実践力を高めるには非常に効果的な練習であると奥澤は考え、実践に及んだのである。『休息を設定してしまうと、選手が自分の内面でおこる対話に指導者が口を挟むことと同じ事になる。その分精神的には楽になるかもしれないが、総合力での成長は劣るような気がする。』奥澤はそう確信していた。
 
 1本目は楽々クリアーした。当然である。練習中にはタッチダウン計時ながら400mを47秒台で走ったこともある。200mのベストは21”45である。
 しかし、スプリントはラウンドが進むごとに力を発揮しなければ勝負にならない。
 これからが今日の練習のポイントなのだが、30分程度の休息で2本目も何とかクリアーした。時刻は18時30分。
 
 田沼高校のトラックは校舎の建つ場所から見ると一段低い所にあり、ホームストレートにそって観覧席のように芝生で覆われた土手が伸びている。その土手の上、100mのゴール地点でストップウォッチを片手に奥澤は大野の様子を凝視する。
 2本目を走り終わった後、大野が土手の上まで上がってきて記録を確認した後、
 「いやー、きつい。もう少し休んだ方が良かったかもしれません。3本目は行けるかどうかわかりません。35秒はとても切れるとは思いません。」
 と言うなり横になった。
 
 田沼高校の部員が練習を終えようとダウンに入った。奥澤は土手から降りて毎日欠かさず行う練習後のミーティングに向かう。部員それぞれから、今日の練習の感想などを聞くためである。
 50m付近に校舎側とグラゥンドとを行き来する階段があり、その部分で土手は二つに割られている。その階段に生徒を座らせ、ミーティングを行うのが常である。
 しかし、その日はミーティング中の部員の言動の他に気になるものがある。大野の様子である。(完全に参っているな)と思いながら、奥澤は時折左50m先を見る。大野はピクリとも動かない。間もなく19時である。  
 ミーティングが終了し田沼高校の生徒は解散した。
 「小林、部室から毛布を持ってきてくれ」と奥澤は信頼できる田沼高校の部員に声をかけた。小林は走って部室に行き、毛布を持って走って戻ってきた。
 「大野さん動けなくなってますね。毛布賭けに行ってきましょうか。」
 「いいよ、俺が行く。お前たちは帰っていいよ。」
 と小林を制し、毛布を抱えて大野の所に行くと、大野は寝息を立てていた。短パンとTシャツ、スパイクもはいたままである。2本目が終わってから30分は経っている。
 奥澤はそっと毛布をかけた。そして、(目覚めるまで待つしかないな)と思い、長期戦を覚悟した。
 
 大野が寝ている近くに街灯がある。その下にはベンチ。奥澤はそこに座り本を読みながら待つことにした。
 田沼高校は県立公園唐沢城址の麓、西側にある。グラゥンドに立ち東を見ると、唐澤山がグーッと迫ってくるようなロケーションだ。
 唐澤山は急峻である。『高さ海抜九百尺』と頂上の唐沢山神社にある。そう高いわけではないが、かの上杉謙信も落とせなかったと言われている関東屈指の山城である。前年佐野に来たソウルオリンピック200m3位のR.ダ.シルバやカルロス・コーチのアドバイスもあって、奥澤はこの冬大野とともに唐沢山を走りまわったことを思い出していた。
 
 読書に集中できなくなり、奥澤はふと東の空を見た。そこには満月が浮かんでいる。真黒な山と光輝く満月が、まるで山水画のようである。
 まもなく9時になろうとするころ、むっくりと大野が上半身を起こした。
 「ああ、寝てしまいました。」
 「功二、見てみろ、唐沢と月がきれいだよ。もうすぐ9時だ。今日の練習の目的は半分以上果たしたと思うし、日本ジュニアも予選、決勝の二本だから今日はこれで上がるか?」
 と奥澤が訊くと、大野は
「いや、やります。もう一本行きます。」と間髪入れずに答えた。
 「そうか、体は大丈夫か?」
 「このままではクリアー出来そうもないからアップしなおします。」
 そうして、大野は薄明かりの中あらためてアップを始めた。
 教官室に戻り、急いで奥澤は家に電話をした。これほど遅くなっていることに気付かずにいたからである。
 「まだ練習が終わらない。先に食べていてくれ。俺たちの夕飯は10時過ぎるかもしれない。」
 それから30分後。大野は見事に35秒を切って300mを走った。
 
 そして日本ジュニアの週がやってきた。
 その週の火曜日。
 例によって朝飯を食べながら今日の練習内容について奥澤は大野に説明する。
 「今日はまっすぐ家に帰ってこい。ゴルフ場で下り坂をやろう。」
 夕方の6時。誰もいないゴルフ場。
 「何本でもいいから、気持ちよく、ブレーキをかけずに、足の回転を意識して、“身体の飛び”が感じられたら終わりにしよう。」
 その1本目。
 ものすごいスピードで大野は150mの下りを疾駆した。まるで競走馬のようであった。
 「どうだ?」強烈な走りを見てわかっていながら、奥澤は聞く。
 「大丈夫です。日本ジュニアは優勝できると思います。」
 まだ、関東でも勝ったことのない大野がそう断言した。
 そして、予告通り日本ジュニアで優勝した。
 
 ご褒美はアメリカ遠征。
 アメリカでは朝原とずっと同室であった。二人とも“出来のよい選手”で、コーチ陣からも「アトランタ(五輪)に戻ってこられるのは朝原と大野」と言われていた。
 アメリカでの第一戦。
 朝起きてから試合が終わるまで奥澤は心配で大野に付いて歩いた。
 第二戦になると大野は、
 「暑いからアップは冷房の利いた向こうの体育館でやってきます。流しができるようになるまで仕上がったら、こちらに戻ってきます。先生はそれまで競技を見ていてください。」と一人体育館に向かった。
 さらに大野の成長を感じたのは、競技会も終わり自由時間のときの話である。
 「先生、アメリカの床屋はどんなものか、ちょっと行ってきます。」と出かけた大野はGIカットでかっこよく決めてきた。
 
 大野は佐野高校卒業後中京大学に進学し、世界ジュニアを体験した。第1回の東アジア大会では日本記録保持者の伊藤浩司に勝ち銀メダルにも輝いた。ユニバーシアードにも出場したが、不運なことにオリンピックだけは縁がなく、アトランタには戻れなかった。
 しかし、少なくとも大野は奥澤の人生の中で何度か訪れた、指導者としてのポイントのひとつを教えてくれた選手であったことに違いはない。
 新里が練習方法に革命を起こし、その練習方法が間接的に栗原に影響を与えたように、大野は齋藤に影響を与えたと言っても過言ではない。もっとも、新里の浪人生活は奥澤の脳に刻み込まれ齋藤にも影響を与えているわけであるが…。
 
 こうして、奥澤は「せる」「させる」からの脱却に一時的ながら近づいた。
 
 しかし奥澤が、“指導者の『視点』と競技者の『感点』の交差点に成功のカギがある”と気づくのは、翌1992年のバルセロナ五輪前の青戸慎司との練習、そして同年の筑波大学での研究生活がきっかけである。
 

 
                             【回顧2004年8月】
 奥澤が現場から離れているのをどこで聞きつけたのか、群馬大学の山西哲郎から、
 「おい奥澤、暇ならうちのコーチになってくれ」と電話があったのは21世紀になって間もなくのことであった。
 そう言われても、佐野高校陸上競技部の伝統を引き継ぐのに四苦八苦している須藤宏からも「指導にきてください」との話があったころである。OB面を前面に、佐野高校の生徒との遊びが復活していたため、群馬大学に指導に行くことはできなかった。
 2000年に佐野高校に入学した生徒の中に吉永一行という部員がいた。中学時代に野球をやっていたらしいが、1年の関東大会では走幅跳でベスト8に残った。2年の関東大会では優勝である。
 吉永2年冬。土曜日になると吉永は毎週のように司若寮(奥澤の私寮)に宿泊してミニ合宿をはった。
 練習はもちろん、食事からトレーニング理論まで、将来競技者として自己管理できるように奥澤は徹底的に指導した。
 残念なことに不慮の怪我のため3年時にはインターハイに出場できなかったが、翌年吉永は奥澤が継続して指導することが可能な群馬大学に進学した。
 吉永が進学してから奥澤は毎週のように群馬大学に通った。
 しかし、奥澤は自分の学生時代に比べ、あきらかに群馬大学の学生は相互学問をする際のレベルが低いと感じていた。それでも奥澤はあきらめず群馬大学で指導をした。
 
 転機は2004年に訪れた。
 すでに筑波大学を退職していた西藤宏司の発案で「西藤と山西と奥澤が投・長・短のコーチとなる。そこに誰かもう一人跳躍の指導者を加え、北関東3県を股にかけたクラブチームを作り選手づくりをしようではないか!」ということになったのである。
 跳躍コーチが未定のまま、その年8月、第1回目の合宿を行った。後に語り草となる『伝説の日光合宿』である。
 群馬大学の吉永、筑波大学の品田直宏、国士舘大学の海老原有希、そしてただ一人高校生の参加となった鹿沼高校3年の齋藤仁志のほか有志数名が参加した。
 結果的には、その後JUVYで活躍することになる選手が一同に会したことになったのである。そのことはバンコックユニバーシアード大会に品田、海老原、齋藤の3名が出場していることからもわかる。
 指導者は西藤、山西、奥澤に加え品田吉博が北海道から駆けつけた。現在日立女子陸上部で指導する松永元はトレーナーとしての参加であった。
 
 JUVYの練習に大学生が参加する場合は悩みがあってやってくるか、何かヒントが欲しくて来ることが多い。
 そこで奥澤は「このような練習方法があるが、取り入れてみないか」という形をとることにしている。大学の選手には所属先のオリジナル練習やドリルがあり、そこを侵害しないということが暗黙のルールである。従って「大学に戻ってからの練習に取り入れるように」などといったことはできず、選手の選択に任せるしかない。
 この合宿もそのようなスプリント思想の伝達のつもりであった。
 
 日光から帰った翌日、鹿沼高校陸上部監督の人見真幸から奥澤に電話があった。
 「齋藤に何を教えたんですか?」まるで怒っているようである。(やはり高校生には無理だったか。奥澤理論に対する“知恵熱”が出てしまったか)と一瞬思い、人見の声に奥澤は自らの腰が引けるのがわかった。
 人見は興奮して続けた。
 「齋藤が全く違った走りになっているんですよ。腰は高くなり、ストライドは広がり、前にグングン進んで行くんですよ。全く別人になっています。何をやったんですか。」
 勘違いだったかと奥澤はホッとし、
 「そりゃーよかった。何を教えたか忘れた。後で整理して紹介するよ。そんなことより齋藤が何かをつかんで帰ったんじゃないの。」と、答えた。
 
 そう、齋藤が何かをつかんだのである。
 大学生の中に一人入れられ、吉永や品田のアドバイスを聞きながら、必死で過した4日間で齋藤は他人から「させられる」のではなく、自ら「する」練習が自己成長の源であることに気づいたのだ。
 


                            【そして2010年9月】
 『習慣化した行動様式を言葉や理屈だけで矯正することは困難だ』という。
 だからといって、指導者が見ている時だけ一生懸命やらせるような指導法が子どもの成長にとって好ましいものとは思えない。
 
 『わかる時にわかるまで教える。』という。
 引出しにしまってある方法論を機に応じて出すことの必要性を述べている。自主独立させるための指導法の引出しを指導者はできるだけ多く持っていなければならない、ということだ。
 指導法の引き出しをあまり持っていない指導者は、わかる時を逸し、わかる前にあきらめてしまうのではないか。 
 
 『子どもは大人が教えたようにしか育たない』という。
 動物も最終的には親から離れ独立する。動物の親はある時期がくると、ついてくる子を蹴り飛ばしてでも独り立ちさせる。
 「せる」「させる」式の指導で育った子どもは、そこまでどんなに優秀であろうと、独り立ちしなければならない時に一気に萎え萎むのではないか。
 
 今私にできることは、『スポーツを通して一人ひとりの意欲、主体性を引き出し、生活をマネジメントできるようにすること』を基本においた指導法の普及ではないかと考える。
 賢者は反論するだろう。「後からわかればいい。とにかく勝つためには時間がないのだ。そんなやり方では教えている間に自分の眼で成長を確認できない!」と。
 私だって面前の試合で負けていいとは思わない。できれば少しでも上に行きたい、というより勝ちたい。勝たなければ学べないことも沢山あるからだ。
 それでも、やはりそんな方法や方向性が大切なのではないかと、これまでの指導法を顧みて思わずにはいられない。
 
 私は、超エリート陸上校や根こそぎ勧誘大学の尻を追いかけるような言動をとりたくない。
 自主性と放任を区別できない指導者や合同練習と称してマル投げをする指導者になるのもごめんだ。
 そういったやり方とは違うやりかた、根底には「せる」「させる」から脱却したやり方を一貫して行う指導法で、私はスポーツの世界を“突き抜けて”みたい。
 
 学問とスポーツを両立させてきた高校生が意に沿う大学に進学し、本物のスポーツ活動と本物の学問を追求しながら意に沿う大学生活を送る。
 そんな人間が10年後、20年後に、文武両道を貫いた結果培った総合力を駆使し、リーダーとなって日本をそして世界を引っ張る日が来るのを、根気よく待っていようかと思う。
 

                
Vol.1 JUVY 創 設
Vol.2 理想の指導者とは
Vol.3 素晴らしき指導者
Vol.4 回顧・2005年
Vol.5 新春は箱根と共に
Vol.6 凛として颯爽と
Vol.7 眼のつけどころ
Vol.8 視点・感点
Vol.9 思い出に残る一言
Vol.10 新たなる旅立
Vol.11 JUVY誕生
Vol.12 春のスポーツシーズン到来
Vol.13 指導者としての実践力とは
Vol.14 ジュニアとシニア・その1
Vol.15 ジュニアとシニア・その2
Vol.16 わたしなりに言いたいことを…
Vol.17 「眼に見えない力」
Vol.18 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」
Vol.19 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」
Vol.20 「トーナメント・有限と無限の交差点」
Vol.21 「定石とひらめき」
Vol.22「合同練習会」
Vol.23「国民体育大会」
Vol.24「心・技・体」
Vol.25「再興」
Vol.26「神在り月」
Vol.27「修行」
Vol.28「言霊」
Vol.29「夢」
Vol.30「影響力」
Vol.31「健康」
Vol.32「我家の凜氣」
Vol.33「食」
Vol.34「インカレ」
Vol.35「2007年 JUVY TC前期総括」
Vol.36「今日まで、そして明日から」
Vol.37「国体関ブロ観戦記」
Vol.38「想いを文字で伝えるということ」
Vol.39「人間の運命について」
Vol.40「思いつくまま継走の如く」
Vol.41「広き世界」
Vol.42「スピード・スピード・スピード」
Vol.43「白と青、そして遊」
Vol.44「36−10」
Vol.45「この卯月に思ったこと」
Vol.46「スプリント」
Vol.47「”運”と”付”」
Vol.48「純粋にひたむきに」
Vol.49「オリンピックへの興味・関心」
Vol.50「ラストゲーム」
Vol.51「氣づき」
Vol.52「私見・学校というところ」
Vol.53「チーム」
Vol.54「遠征講習会」
Vol.55「蔵出し その1」
Vol.56「蔵出し その2」
Vol.57「Enjoy Baseball
Vol.58「ふるさと
Vol.59「夢舞台に向かって」
Vol.60「評価」
Vol.61(臨時増刊)「桂月・秋立つころ〜北上にて」
Vol.62「「古都・奈良でのはなし」
Vol.63「「今の若いものは・・・」
Vol.64「「朱夏の61年間と白秋2009」
Vol.65「「2009日本スプリント地図」
Vol.66「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第1回」
Vol.67「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第2回」
Vol.68「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第3回」
Vol.69「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第4回
Vol.70「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第5
Vol.71「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第6回
Vol.72「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第7回
Vol.73「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第8回
Vol.74「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第9回

Circle-JUVY General Manager OKUZAWA Yasuo