Vol.73 2010. 葉月
四季の風 ―乗って、向かって、横からうけて―」
第8回 (2010年8月8日)
 
                                   
U  スポーツと感動

  
 (2)教え子に「本物」を教えてもらう


 1974年4月、私は栃木県教員として就職し栃木県立佐野商業高等学校定時制に赴任したが、「学校のしくみ」など何もわかっていなかった。そのころ「校務分掌とは何か?」などと問われてもおそらく答えられなかったと思う。新採研修なども出席してはいたが(もちろん欠席は許されない)研修の内容が職務に直接役立つ感覚は得られなかった。学校の仕事は決まり事のように感じ、何となく与えられたことをこなしていたようである。学校全体として進むべき道のどこに自分がいるか、などといったことのイメージはできなかった。
 
 そのような感覚は陸上競技部の指導をしても同様である。スケジュールは生徒の考えなど取り入れず、全て自分のスケジュールに合わせてやらせていた。
 
 『せる・させる』からの完全脱却は随分後のことである。

 

                     【本物を教えてもらうことへの序章】
 教員になって3年目の関東高校あたりから教え子に教えてもらっているということがわかり始めてきたようだ。
 

 その1
 大会1週間ほど前に、3年生のキャプテンが、
 「受験勉強を優先するので関東大会に出場したくない」と言ってきたのである。
 4×400mRであわよくばインターハイにも出場できるのではないかと考えていたから、その時のショックは大きかった。大会社の御曹司であったその生徒には何も言えず、監督の長野先生と相談のうえ、「仕方ない」ということになり、対応策として2年生を臨時キャプテンにして関東大会に向かった。
 文武両道の真の意味も教えずに、武のみに偏る指導をしてきた私への最初の試練であった。


 その2
 その大会で1年生が大失敗をしでかした。
 
 まずは4×100mR。
 メンバーはアップを終了しユニフォームに着替えようとドレッシングルームに入室した。
 しばらくすると、関東大会を前にやめてしまった元キャプテンの代わりにアンカーを走ることになった1年生の顔がどんどん青ざめていく。
 「どうした、緊張してきたか」と聞くと、
 「ユニフォームを宿舎に忘れてきました」と呆然自失。
 そこで4×100mRは終わった。棄権せざるを得ない。
 
 「試合前日にはゼッケン(今で言うところのナンバーカード)はきちんと糸で縫いつけてハンガーに賭けて、明日の自分をイメージすること」とだけ話し、なぜそうするのかを説明せずに形だけの指導をした私は正しく伝えなければ失敗することを知った。
 
 ついで4×400mR。
 あわよくば、あわよくば、(“あわよくば”の2乗であるから、確立は低かったのかもしれない)といった期待もあることから、退部した元キャプテンの代走となった第1走者は、4×100mRとは別の、これまた1年生であった。私はその1年生に、
 「前半押さえて、後半死に物狂いで走りバトンをつなげ」とアドバイスして見送った。
 「位置について よーい ドン」
 レースが始まったが、まるでジョッグをしているように走る選手がいる。緑のユニフォームである。ペースがわからないのか、あまりにも遅い。(何とか後半つめてこい)と思っていると、一向にペースは上がらずそのままのスピードで来てしまった。ラップタイムは非公式であるが60秒をはるかに超えていた。むろん予選最下位で落選。
 県大会でトップ争いをしていた国学院栃木が県大会に引き続き優勝したわけだから、いかに私のくだしたオーダーや選手への指示が悪かったかわかるというものである。
 選手には罪はない。
 自分で走るリレーとコーチングのリレーは全く違うことを知った。

 

                              【キャプテン・その1】
 その時の関東大会のことである。
 当時、TBSラジオに「ヤングタウン東京」という番組があった。
 東京に宿泊し関東大会に出場していたチーム佐野(佐野高校と佐野商業高校の連合体)であったが、競技を終了してしまった仲間を新キャプテン(2年生)が率い、赤坂のTBSに向かった。
 混成競技で3位に入賞し、翌日三段跳でもインターハイを目指す須藤宏を宿舎に置いて、むろん監督・コーチ陣には内緒での決死行である。
 
 やんちゃな新キャプテンはその数ヶ月後、まさかの校則違反をして謹慎をいただいた。
 新キャプテンの兄は高校時代から学業成績優秀、競技力も高く、将来を嘱望されていた。私も「兄に負けるな」と常に叱咤激励をしていたし、周りの者も知らず知らずのうちに兄と比較していたようである。
 さらには新キャプテンとして期待にこたえなければならないはずの関東大会両リレーを失敗した。
 また、上級生がいるのにキャプテンをやらなければならないという苦しさから、どこかに逃げ場を求めていたことを、当時の私は観聴きすることができなかった。
 
 観聴きできない私には解決策は見当たらず、藁にもすがる思いで筑波大学に行き西藤先生に相談した。
 すると先生は、
 「校則にのっとれば悪いことをしたことは誰にもわかるわな。問題は指導者自身が一緒に反省しているかどうかということや。おまえは聖人君子か?おまえもただの一人の人間やないか。それが先生になったからといって偉くなってはあかん。人間が人間に注意をするということは大変なことと思っとるか。まずは、その部員がやってしまったことで本当に悪いと思われることを抜き出してみぃ。同時にな、今までのお前の指導、特に考え方におかしなところはなかったかも抜き出してみぃや。それらを整理し、改めなければならないことを探さなあかん。探し当てられたら、そこを教師と生徒が一緒になってなおしゃいいんや。ただし、注意するときは、よーけ注意の仕方を考えてせんといかん。言葉を選びーよ。」と、
今でも鮮明に覚えている言葉で私を諭した。
 その時から、この言葉が、私の生徒指導のぶれてはならない太い軸となっている。
 
 そんなこんなで、その年の8月、甲府で開催された関東選手権に新キャプテンは同行させていない。実力的には走れないのがわかっていながら1年生をリレーの補欠として同行させた。
 
 私個人の考えでは、彼は陸上競技部を退部すると思った。
 しかし、彼はリレーメンバーから外されても、キャプテンを下されても腐ることなく陸上競技部を続け、3年連続400mHで県チャンピオンの偉業を達成した。
 大学進学後はカヌーに転向し日本代表になった。
 そして今は佐野で最も大きい稲作農家の社長として農業経営者から尊敬の眼差しで見られている。我が家の米はもちろん、品田直宏君食する米もここから届く。
 
 彼こそ、JUVYのスポンサー友米家のオーナーであり、JUVYキャプテンの篠原幸雄その人である。
 
 あの関東大会から30年。彼はついに本物のキャプテンになったのである。
 今の彼はキャプテンシーを存分に発揮し、「先生、そりゃ駄目ですよ」と、堂々と言ってくれる数少ない教え子の一人である。

 

                              【キャプテン・その2】
 1年生がユニフォームを忘れて関東大会を泣く泣く棄権したころ、おもしろくなさそうに(おそらく)佐野高校のグランドで白球を追いかけている選手がいた(ようだ)。
 
 関東大会も終わり1カ月ほどたったある日、陸上競技部の部室に見慣れぬ顔をした生徒がいた。身体は小さいが眼だけキラキラしていた。
 「俺、足は速くないッスよ」といきなり身構えた。
 最高記録を尋ねると「100mは13秒8ぐらいかな」とぶっきらぼうに言う。
 運動部感覚で言わせてもらえば、まさに生意気を絵に描いたような態度である。
 「すぐ速くさせてやるよ。だから、○日からの夏合宿に参加しろよ」と私。
 「何で俺が合宿に出なくちゃなんないんスか。」と野球部崩れの1年生は答える。
 「だって、陸上部に入ったんだろう。」
 「仮入部っす。面白くなかったらすぐやめます。」
 これは説得してもだめだ、と思い話をやめ、いつの間にかその生徒のことは忘れていた。
 
 その年のインターハイは長野で行われた。棒高跳は予選落選。ハンマー投は決勝に進出したもののファールの連続。やり投は軽く予選を通過しながら決勝の練習中に肘を痛め、力を発揮できぬまま終了。以上が3年生。
 2年生の須藤が5種競技に出場するも力の差が大きく敗退したその晩、
 「須藤と長島(ハンマー投、長野に付き添いで行っていた)よく聞け。お前ら二人一緒に俺の家に下宿して来年のインターハイまで本気でやってみないか?」と話した。
 即答はしなかったものの、須藤の母は私の小学生の時の、長島の父は中学生の時の先生であったことから、家庭の理解は早かったようだ。司若寮一期生はインターハイから戻るとなんなく決定した。
 
 須藤と長島が偉かったのは、彼ら二人以外に後輩を誘ったことにある。
 彼らの入寮にあわせ、前述の関東大会でマイルリレーの1走を務めた石塚(現JUVY短距離コーチ)を、翌年は吉澤(3年時に主将としてマイルリレーでインターハイに出場、明治大学進学後も活躍)と川田寿(ハンマー投で関東大会行田高校10連覇を阻止、国体8位、早稲田大学進学後もインカレ4位、現佐野高校附属中教務主任)を入寮させた。
 
 しかし、彼らとは全く別のルートで入寮してきた生徒がいた。当時のはやり言葉で言えば「あっと驚くタメゴロウ!」である。
 
 その彼は、段ボール製のミカン箱に教科書と練習着と下着を詰め、それを自転車の荷台にくくりつけ山を越えて隣町から来たのである。
 「俺も寮に入って陸上やりますから、入れてください。」
 「親はOKしたのか?」
 「いや、だめです。あそこには絶対行ってはいけないと言われました。兄貴とも喧嘩して出てきたので、いまさら戻れません。」
 自分のスパイクも持っていないような選手がやってきたことに私は感動し、入寮を許可した。1ヶ月前に部室で合宿拒否をした生徒である。
 
 その年の秋、彼は100mを12秒1で走った。中学時代から1秒7の更新である。
 ところが、本人は100mでは通用しないと考えていたらしく、須藤の尻を追いかけながら、幅・三段で関東大会出場を目指していたようだった。
 本人はそうは思っていたらしいが、幅は6mなどはるか遠く、三段にいたっては12mの踏切板からでは砂場に3歩で入れる日がいつ来るだろうか、といった選手であった。
 仕方なしに、下り坂でのバウンディングを毎日やるように指示した。
 
 翌年は11秒4まで記録を伸ばした。実績としては国体予選で2位になるまでになった。ただし、当時はシンダーのトラックであるから、今とは記録の比較できない。
 そんなことより、1年少々で100mで2秒4の更新には驚いた。もっと驚いたのは三段跳で13mを超えたことであった。
 
 3年になり、関東大会では審判のミスとしか思えない判定(その年の関東大会は電気計時ではなかった)で決勝進出を逃したが、国体に出場した。国体では見事予選を通過し、準決勝で、後、筑波大学で活躍することになる有川君と競り合うまでになっていた。
 最高記録は10秒9まで行った。何と中学時代から2秒9の更新である。
 
 ところが彼は浪人することになる。某大学は合格していたが「その大学では不本意」ということで浪人を選択したのである。
 その浪人中に転機が訪れた。彼は受験勉強が中心の生活であることから練習時間が取れない。そこで、短時間の練習で効果のあがるトレーニングを開発しようということになった。まさにスプリント革命の始まりであった。
 その年も国体に出場。追風参考ながら10秒66で走りついに3位にまで駆け上がった。ちなみにその時の優勝者はアジアチャンピオンの豊田選手である。
 2005年に齋藤仁志が浪人中の日本Jr.で優勝したが、私にはこの時の体験が役に立っているし、感覚的には彼の国体3位の時の方が強烈な印象として残っている。
 
 翌年明治大学に進学。室内60m日本代表、IC3位入賞、など華々しい活躍をするが、ここではそのことはどうでもよい。
 
 明治大学では3年の関東IC以降キャプテンになった彼は合宿地を常に佐野としたばかりでなく、フリー時の練習場所も佐野とした。そして私を明治大学のコーチに推薦した。
 彼の俯瞰的な発想とピンポイントで攻める行動力が明治大学の短距離を再興させた、と言っても決して言いすぎにはならない。
 
 大学内では責任ある立場にありながらも、彼は佐野高校の後輩を労わった。
 彼が大学4年のICで佐野高校の後輩と100m決勝で戦うことになった時にも、彼は自分のことよりその後輩の面倒をみた。そして大学1年生の後輩を優勝に導いた。
 
 今年、佐野高校陸上競技部後援会は旭城陸友会と名称をあらためた。
 その第1回の総会に、彼や須藤は旭城陸友会理事に就任したその後輩を総会に参加するよう誘ったが、その後輩は理由を言うことなく欠席した。ただただ残念至極である。
 
 彼が大学を卒業してから5年後、その後輩のオリンピック出場が決まった。
 彼はもちろん、彼の母までが手紙を添えて私のところに激励金を届けてくれた。彼の母は、彼が高校1年の夏、我が家に下宿して本気で陸上競技をしたいと言った時、最後まで反対したため、彼は夜逃げ同然で我が家に向かったことは既に書いた。
 激励金とともに私に預けられた彼の母の手紙には、「あの時下宿することに反対して申し訳なかった。先生を信用できずに本当にすまなかった。あの時の苦労のおかげで、また、多くの皆さんのおかげで倅は独立することができた。この金を是非同じ苦労をした佐野高校の後輩某に渡してやってほしい」とあった。
 私はこの手紙を見たときに人間の素晴らしさを知り、感動で涙がとまらなかった。不思議と猪苗代湖畔にある野口英世記念館で見た英世の母の手紙が重なった。
 
 彼が私とともに開発してきた練習方法が今のJUVY方式スプリントトレーニングの基礎をなしている。彼がいなければその後輩はどこまで出世したであろうか。私の脳内には(逆の立場で彼らが生まれていたら)というタラレバがいつも浮かんでいる。
 
 キャプテン・2として書いてきた男の名は新里敏幸という。
 
 己のリスクを最小限に抑えながら、己の欲望を最大限に求める人間を私は最も嫌う。
 彼は己のリスクをおかしてでも、関係者への敬意を一時も忘れぬ人間である。
 新里敏幸ほど私の心を読める人間に未だかって出会ったことがない。
 
 彼がキャプテン・その1で書いた、篠原幸雄の代わりに関東選手権に行き、翌年佐野高校第55代のキャプテンとなった男である。
 


                          【教えること・教わること】
 柱のきづは おととしの    五月五日の 背くらべ
 粽たべたべ 兄さんが     計ってくれた 背のたけ
 きのふくらべりゃ 何のこと  やっと羽織の 紐のたけ(海野 厚・詩)

 
 若いころは身体と精神が毎日のように背比べをしている。
 体の発達は目に見えるものとして、精神の発達は見えざるものとして、ぐんぐん伸びている。放っておいても大きくなるのだろうが、やはり自分で刺激を入れている子どもが本物だ。
 指導者として教え子に教えてもらったことは、無限にある。
 しかし、総括すれば3年間毎日一人で背比べを続けられる子どもの偉大さであった。
 そんな背比べをしている子どもたちの見えない部分を「よく観聴きし解ってやれる」指導者こそ本物!ということが実感できた。
 数年前、あの時退部したキャプテンに電車の中であった。彼からあの時の事を詫びてきたとき、おおよそ30年ぶりに関東大会を一緒に走った気分になった。
 彼の退部は今思えば、私だけでなく、篠原や新里の人生を良い方向に変えていたのだ。
 
 高校生の純粋な気持ちとは、大人が勝手に判断してはならない心の内部をさすようである。そこのところを尊重すれば多くの生徒は指導者を裏切らないことを教え子たちは教えてくれている。
 
 教え子と書くと、教師は世の中のことすべて教えているように思われてしまう。
 しかし、そんなことはない。
 教え子に教えてもらったことは、こちらが教えたことよりより多く覚えているのではないか。
 
 体験は貯金のようにはたまらない。特に失敗体験は小銭のように無くしてしまう。
 せめて、教え子に教えてもらった「本物の価値ある体験」はしっかり貯蓄しておきたい。
 
 『勝ちは兵、負けは将』の心をもち、『歴史は記録に残らない者たちが刻む』がわかる、サウイウモノニ ワタシハナリタイ。
 
 そういう人物になれたとき、甘辛いろいろ教えてくれた教え子たちへの恩返しが終わるのかもしれない。

              
Vol.1 JUVY 創 設
Vol.2 理想の指導者とは
Vol.3 素晴らしき指導者
Vol.4 回顧・2005年
Vol.5 新春は箱根と共に
Vol.6 凛として颯爽と
Vol.7 眼のつけどころ
Vol.8 視点・感点
Vol.9 思い出に残る一言
Vol.10 新たなる旅立
Vol.11 JUVY誕生
Vol.12 春のスポーツシーズン到来
Vol.13 指導者としての実践力とは
Vol.14 ジュニアとシニア・その1
Vol.15 ジュニアとシニア・その2
Vol.16 わたしなりに言いたいことを…
Vol.17 「眼に見えない力」
Vol.18 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」
Vol.19 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」
Vol.20 「トーナメント・有限と無限の交差点」
Vol.21 「定石とひらめき」
Vol.22「合同練習会」
Vol.23「国民体育大会」
Vol.24「心・技・体」
Vol.25「再興」
Vol.26「神在り月」
Vol.27「修行」
Vol.28「言霊」
Vol.29「夢」
Vol.30「影響力」
Vol.31「健康」
Vol.32「我家の凜氣」
Vol.33「食」
Vol.34「インカレ」
Vol.35「2007年 JUVY TC前期総括」
Vol.36「今日まで、そして明日から」
Vol.37「国体関ブロ観戦記」
Vol.38「想いを文字で伝えるということ」
Vol.39「人間の運命について」
Vol.40「思いつくまま継走の如く」
Vol.41「広き世界」
Vol.42「スピード・スピード・スピード」
Vol.43「白と青、そして遊」
Vol.44「36−10」
Vol.45「この卯月に思ったこと」
Vol.46「スプリント」
Vol.47「”運”と”付”」
Vol.48「純粋にひたむきに」
Vol.49「オリンピックへの興味・関心」
Vol.50「ラストゲーム」
Vol.51「氣づき」
Vol.52「私見・学校というところ」
Vol.53「チーム」
Vol.54「遠征講習会」
Vol.55「蔵出し その1」
Vol.56「蔵出し その2」
Vol.57「Enjoy Baseball
Vol.58「ふるさと
Vol.59「夢舞台に向かって」
Vol.60「評価」
Vol.61(臨時増刊)「桂月・秋立つころ〜北上にて」
Vol.62「「古都・奈良でのはなし」
Vol.63「「今の若いものは・・・」
Vol.64「「朱夏の61年間と白秋2009」
Vol.65「「2009日本スプリント地図」
Vol.66「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第1回」
Vol.67「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第2回」
Vol.68「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第3回」
Vol.69「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第4回
Vol.70「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第5
Vol.71「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第6回
Vol.72「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第7回
Vol.73「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第8回

Circle-JUVY General Manager OKUZAWA Yasuo