Vol.72 2010. 文月
四季の風 ―乗って、向かって、横からうけて―」
第7回 (2010年7月8日)
 
                                   
U  スポーツと感動
  

 (1)若さが命だ 若さを燃やせ
 
                                    【旭城魂】
 若さが生命(いのち)だ 若さを燃やせ
 燃やして旭城(きょくじょう) 健児は勇む
 たけぶ若さは われらのものだ
 組んだ手と手に 勝利を誓い
 いまこそ勝ちどき あげるのだ
 佐高(さこう) 佐高 大佐高(だいさこう)  
 ※2・3番略
 私の母校である栃木県立佐野高等学校学生歌(通称応援歌、戸恒和夫・詩)である。
 
 燃ゆる旭(あさひ)は 城山に出(い)で
 自由の青空 正しく歩む
 明(あか)きは 若き魂(たま)
 われら 太陽の子
 友よ 腕(かいな)組みて
 行こうよ 広き世界を
 ※2・3番略
 こちらは校歌(下総皖一・詩)である。
 
 『旭城』とは佐野高校を表しているわけだが、そう言われてもこのことは関係者以外にはわかるまい。造語である。
 この『旭城』には文武両道という意味も含まれている。
 佐野高校は西に朝日森天満宮、東に城山という環境の中にある。つまり、天満宮は学問の神様であり、城山は武士が築いた城であることから、「旭城とは総じて文武両道をも表わす」と聞かされている。
 
 時代が前後する。
 私が佐野高校に入学したのは昭和42年(1967年)である。
 入学式前から陸上競技部の練習に参加し(もちろん現在は厳禁)、文武両道を目指していた私を驚かせたのは、入学式後のホームルームで担任が発した言葉、
 「部活動をやっていては大学に行けないから、部活にはつとめて入らない方がよい」
であった。
 
 もっとも、それから20年ほどたち佐野高校教員時代のある年の入学式で、時の管理職が「佐野高校は陸上やラグビーをやりに来るところではない。受験勉強をするところなのだ!」と断言したときにはあきれてものが言えなかったが、進学校としての偏った考え方は消えていなかったことを思い知らされた。
 
 さて、見事なくらいに脅された我が同級生は、高校3年になったときには運動部員4名という文武両道が泣いてあきれる事態となっていた。
 
 そのような中でインターハイに出場することができた私にとって、出発前の壮行会と帰校後の報告会はいたく感動させてくれた。特に、壮行会で感動は今でも生々しく残っている。ステージ上に立つ私に向かって全校生徒が大きな声で歌ってくれたのである。その歌こそ、上の学生歌だった。
 今でもその時のことを覚えていてくれる同級生(後輩)がいて、佐野の飲屋などで会うと、「奥澤(さん)、あの時は感動したよ(しましたよ)」などとおだててくれる。そうすると、「あちらにビール一本」となってしまうのだが…。
 
 皆、文武両道の高校生活をしたかったのだと思う。
 しかし、学校の雰囲気がそうさせなかったのだ。
 現在は中高一貫校として女子も在籍している。もちろん現在も佐野高校は文武両道という言葉を使っていると思うが、『文傾』になっていかないように願うのみである。ましてや、教員の『隠れ文傾』などは真っ平御免である。
 
 母校の廊下にはオリンピック出場者を称える記念の品が飾ってある。来校者が見れば文武両道を実践する素晴らしい学校と思うであろう。
 
 オリンピックに同窓生が出場することは大変名誉なことである。鹿沼高校の校長室にも誇らしげに齋藤仁志のスパイクとJAPANのユニフォームが部屋の隅に飾ってある。まさに『誇らしげな中にもつつましく』といった表現がぴったりで、私などは(齋藤らしくてよい)と思っている。
 
 ところで、佐野高校の文武両道の歴史を作ってきたのは彼らオリンピック出場者だけなのであろうか。
 私のような偏屈な指導者としてはむしろ、「部誌などには登場することが極めて少ない、名もない部員が作り上げてきた文武両道の世界を忘れてはならない」と声を大にして叫びたい気持ちが先に立つ。つまり、陸上競技部記録集などに小さく下のほうに書かれてある名前にこそ貴重な歴史を探し当てることができるのだ。
 それゆえに、校長室前の廊下に並ぶ棚より、二階の渡り廊下にある賞状の並びを見た時に元気が湧いてくる。
 
 高校生にもなれば、保護者も教師も(将来を考えて学習に励んで欲しい)と思う。その反面(せっかくの高校時代、のびのびと好きなことに打ち込ませたい)とも考える。
 そんな思いは今も昔も同じ親心というものである。
 幸いにも、私は両親から「勉強しろ」などとは一度も言われたことがない。家族一同が好きな道を好きなように送らせてくれた。
 また、陸上競技部顧問の岡島先生も我々を励ますことはあっても、「やめろ」などとは決して言わなかった。もっとも、主将になって最初の合宿の時、寝過ごして練習に遅れた時には、さすがに「やめてしまえ!」と言われたが、これは檄を飛ばされたわけで、いまでは笑い話である。
 
 陸上競技部の理念でもあった『自主独立・剛健不屈』の『旭城魂』は歴史の表舞台に立てないような方々が脈々と育てたものであり、時のヒーローが単発的に作り上げたものではないことを知ってほしい。そのためにも指導者は一人ひとりを大切にしたいものだ。
 


                      【生きていることの実感・・・感動】
 昭和49年(1974年)、佐野高校の商業科が分離独立してできた佐野商業高校定時制に赴任した。(この学校の定時制は不思議なことに佐野商業高校普通科というものであった。)
 陸上競技部にはつい先日まで佐野高校陸上競技部に在籍していた北山寿男という小柄ながら素晴らしい身体能力を持つハンマー投の選手がいた。もちろん私は全日制の陸上部の顧問に就くことはできず、現役を続けながら生徒にアドバイスをする一教員にすぎなかった。
 その年、北山の出場する久留米インターハイには自腹を切り別便で行った。その大会で北山は7位。試合中、西藤先生から「何かアドバイスをしてやれ」と何度も言われたが、何もできず、何も言えず、汗をかきながら芝生席で競技を見ていただけの自分が懐かしい。
 その北山は10月の国体では5位に入賞した。北山が入賞したその日その時間、私は200mのレースに出場のため競技場内にいたが、競技場内で堂々とアドバイスを行える特典(?)に恵まれ、(アドバイスとは感動を与えることだ!)ということを知った。
 
 翌年、異例のことではあるがわずか一年で転勤し、佐野高校に教員として戻った。多くの方々の(奥澤は佐野高校でやらせたい)との思いが後押ししたものであったに違いない。
 (この恩をどのように返したらよいか)と考えた私は、
 (とにかく陸上競技部を強くする。具体的には県高校総体で総合優勝を目指す。実現したらフィールドの真ん中に優勝カップと賞状を置き、部員全員が肩を組んで学生歌を歌い、感動を味わう!)と決意し母校での指導を始めた。
 身分は定時制であったが、全日制との兼務を命ぜられたことにより、堂々と全日制の生徒にアドバイスをすることができるようになった。そのことは佐野高校の先輩、当時の陸上部顧問の故・長野佑邦の寛容な心があったからに他ならない。今も感謝の心で一杯であり、年に一度の墓参りは欠かしていない。墓前で一緒に飲むビールはちょっとしょっぱい。
 
 「勝って歌うぞ学生歌」を合言葉に力んでやってはいるが、なかなか勝たせてくれない。
 まずは佐野高校就任3年後の昭和52年(1977年)、須藤宏、長島宏光の大砲をもって国学院栃木に挑むも軽くあしらわれて総合は準優勝。
 翌年は新里敏幸を中心に戦い、スプリント種目出場者全員決勝進出という派手なことをしたが結果は総合3位。
 
 チャンスが巡ってきたのが昭和54年(1979年)であった。
 翌年の国体メイン会場として新競技場が建設され、その競技場開きとして県高校総体が開催された。
 しかし、その大会、前評判では優勝候補の400mHと1500mSCの選手がまさかの失敗で7位。偶然にもその種目6位の選手がその時の優勝校宇都宮農業。1.5点差で敗れた。つまり、いずれかの種目の6位と7位が入れ替わっていれば佐野高校が総合優勝だった。
 同年、7月の学年別大会、10月の新人戦と連勝した。この時は部員間に何となく恥ずかしい気持ちがあったのか、競技場外で学生歌を歌った。それも、小さな声で。
 
 大きな声でフィールドの真ん中で歌うためには高校総体しかない、とまたもや力む。
 翌昭和55年(1980年)の高校総体の総合優勝争いは2日目まで3校が一進一退で進んだ。3日目も激戦であったが最終種目のマイルリレーが始まる時点で佐野高校がリード、ついで国学院栃木。前年度優勝の宇都宮農業はここで力尽きていた。何着でもよいから国学院の前、最低でも国学院に次いでゴールすれば総合優勝できることが分かっていた。つまり1.5点の差をつけてマイル決戦となったわけである。結果はなんと一チーム間に入り込まれ、0.5点差でまたもや準優勝。
 この年も学年別、新人戦と勝ち、高校総体以外の公式戦はそれぞれ2連覇を達成した。
 
 やっと胸を張ってフィールドの中央で学生歌を歌えたのは昭和56年(1981年)の高校総体であった。
 第一日目の第一種目、4月の時点で日本ランク1位であった4×100mR予選で第一走者から第二走者へのバトンパスを失敗しバトンを落とすという悪夢からこの大会は始まった。
 それでも部員の総合優勝への執念は凄まじく、終わってみれば大差での勝利となった。ちなみに現在の佐野高校監督川田浩司が最上級生の年である。
 
 

                               【感動の忘れもの】
 部員の総合力で勝ち取った、あるはずの賞状がない年がある。
 なぜかと言えば、ある年の新人戦であってはならないことをした学校があり、その学校が総合優勝したことになっているからである。
 
 真相をあかそう。
 その年総合優勝した学校はM1高校であった。総合優勝の幇助をした学校はM2高校である。
 M2高校は投てきが強く、かつ投てき部員も多く入賞確実な選手も試合に出られない状況であった。そこで投てきに手薄なM1高校の代表としてエントリーしたのである。
 案の定、数名が入賞した。得点集計係はそのようなこととはつゆ知らず、得点を累計した。結果はM1高校が総合優勝となったわけであるが、問題はその後の対応である。
 事情を知っていた私は「正直に話して総合優勝は正式な得点累計でやってほしい」とM1高校の監督に話した。すると彼は、「たまには俺にも良い思いをさせてくれよ。」と笑って答えた。 
 話したくはないが事情を総務に話したところ「それはまずいな…。」とは言ったが、それ以上のアクションはおきなかった。(偶然にもM1高校はその総務員の母校であった。)
 主将でエースのKを病気で欠き、審判と口論となり大問題に発展した部員もいたりで、確かに意識が別のところで動いていた。大会の途中から負け戦の雰囲気があたりに漂っていた。そんなことで、私の気が下降していたことは否めない。
 試合終了後、私は「賞状はなくても、事実は俺たちが総合優勝だ」と部員に話し、彼らを納得させた。その時、学生歌はもちろん歌っていない。
 
 この話、真実である。他の競技、たとえば高校野球などなら、大変な問題に発展しているはずである。他校の選手を代打に送りサヨナラ勝ちで選抜のかかる関東大会の出場権を得たようなものなのであるから。
 
 これまで30年近く、私はこの問題の公表を控えてきた。
 しかし、あの時学生歌を歌えなかった部員のことを考え、ここに真実を書く決意をした。なぜならば、人間が感動を得るということは人間が成長するためになくてはならないもの一つであり、そのことを放棄せざるをえなかったことに、今さらながら責任を感じてきたからである。このことは私の日和見的な態度がさせたことにあり、責任はすべて私にある。私が総括しなければならないのだ、の結論に達したのがつい最近のことであった。
 今になっては総合優勝の賞状が返るはずがない。しかし、何かをしないではいられなくなった。
 
 ひょっとすると、あの年代の2年生は(何か忘れ物をしている)と感じてはいまいか。
 そのことが原因で、誰一人として旭城陸友会総会にも出席しない、JUVYにも入会しないのかもしれない、と考えると気が滅入らないわけではない。
 

                          【いつの日か再び感動を】
 佐野高校は昭和56年(1981年)から、平成元年(1989年)までの9年間、高校総体、学年別、新人戦と総合優勝を連勝した。昭和54年と55年の学年別と新人戦の総合優勝を合わせると31回の優勝に輝いた。
 
 高校総体総合10連覇の節目を狙った冬季トレーニングも終わり、シーズンインに向けて気合が入ってくる3月、私は突然異動を命ぜられた。
 その年、平成2年(1990年)佐野高校は高校総体総合7位に沈んだ。
 つまり、平成元年(1989年)の新人戦を最後に佐野高校は県内公式戦の総合優勝をしていないことになる。
 
 あれから20年以上が経過した。
 ぜひ、集団として、組織としての感動を関係者にあじわせてやりたい。
 

 栃木陸上競技協会発行の『50年誌』によると、佐野高校(当時は佐野中学)は栃木県内で初の陸上競技講習会を開催した学校である。それは1918年のことと記されているが、その後県内初の大会、県内初の合同合宿講習会も次々と企画し開催してきたという。
 1928年には旧制佐野中学OBを中心に創設された地域の陸上競技クラブ『佐野スパルタ倶楽部(佐野SAC)』が創設されている。
 
 今年(2010年)の4月、その佐野スパルタ倶楽部の第六代会長に不肖私が推挙された。
 6月には佐野高校陸上競技部後援会兼OB会である『旭城陸友会』の会長も仰せつかった。
 旭城陸友会は8年後に、佐野スパルタ倶楽部は18年後に創部100周年を迎える。
 
 今まさに、伝統を誇りに未来へ挑戦!の心境である。
 
 今こそ、両部に加えJUVYの進むべき道を確認し、進むべき高架道の支柱はまっすぐに立たせなければならない。たとえ道が曲がりくねって行こうとも。

 究極の目標は佐野の陸上競技の一元化ということになろう。
 ただし、これは難しい。
 「お世話になった」とか「恩返しをする」とか「感謝したい」などと言った言葉を持ち合わせていない方も世の中にはいるものなのである。
 だからと言って、ここで一元化をあきらめるわけにはいかない。
 
 去る者は追わず、来る者は拒まず
 臆せず、逃げず、媚びず、激せず
 己の夢に強情に生きる
 
 今は旭城陸友会、佐野スパルタ倶楽部、JUVYそれぞれの部員がそれぞれの場で感動を味わってもらうことが先決である。
 それが、陸上競技の街佐野に住み、スポーツをこよなく愛してきた者のつとめである。


                               【回顧そして懐古】
 昭和52年(1978年)、私は自宅敷地内に『司若寮(しじゃくりょう)』なるものを建て佐野高校陸上競技部としての文武両道を本格的にスタートさせた。
 その玄関には、西藤先生に無理を言ってお願いし書いていただいた『司若寮』の表札と、私の書いた『天才感覚  凡人夢兆  史人唯一  司若永遠』を掲げた。
 
 誰もが天才的な才能と凡人的な憧れを同居させて生きている
 その天才的感性に大きな夢を乗せ、個性あふれる人になろう
 そのためには若い心をどこまで持ち続けることができるかである
 生涯にわたり若い心を燃やし続けることで、自分史に名を残そうではないか!
 
 『若さが生命だ 若さを燃やせ!』
 『出せ 若人の底力!』
 この思いを伝え、実践していくことが『スポーツで感動を』の第一歩であった。
 そして、この言葉がどれだけ苦境に立った自分をそして部員を励ましてくれたことか。
 もちろん、これからも励ましていただくつもりである。

              
Vol.1 JUVY 創 設
Vol.2 理想の指導者とは
Vol.3 素晴らしき指導者
Vol.4 回顧・2005年
Vol.5 新春は箱根と共に
Vol.6 凛として颯爽と
Vol.7 眼のつけどころ
Vol.8 視点・感点
Vol.9 思い出に残る一言
Vol.10 新たなる旅立
Vol.11 JUVY誕生
Vol.12 春のスポーツシーズン到来
Vol.13 指導者としての実践力とは
Vol.14 ジュニアとシニア・その1
Vol.15 ジュニアとシニア・その2
Vol.16 わたしなりに言いたいことを…
Vol.17 「眼に見えない力」
Vol.18 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」
Vol.19 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」
Vol.20 「トーナメント・有限と無限の交差点」
Vol.21 「定石とひらめき」
Vol.22「合同練習会」
Vol.23「国民体育大会」
Vol.24「心・技・体」
Vol.25「再興」
Vol.26「神在り月」
Vol.27「修行」
Vol.28「言霊」
Vol.29「夢」
Vol.30「影響力」
Vol.31「健康」
Vol.32「我家の凜氣」
Vol.33「食」
Vol.34「インカレ」
Vol.35「2007年 JUVY TC前期総括」
Vol.36「今日まで、そして明日から」
Vol.37「国体関ブロ観戦記」
Vol.38「想いを文字で伝えるということ」
Vol.39「人間の運命について」
Vol.40「思いつくまま継走の如く」
Vol.41「広き世界」
Vol.42「スピード・スピード・スピード」
Vol.43「白と青、そして遊」
Vol.44「36−10」
Vol.45「この卯月に思ったこと」
Vol.46「スプリント」
Vol.47「”運”と”付”」
Vol.48「純粋にひたむきに」
Vol.49「オリンピックへの興味・関心」
Vol.50「ラストゲーム」
Vol.51「氣づき」
Vol.52「私見・学校というところ」
Vol.53「チーム」
Vol.54「遠征講習会」
Vol.55「蔵出し その1」
Vol.56「蔵出し その2」
Vol.57「Enjoy Baseball
Vol.58「ふるさと
Vol.59「夢舞台に向かって」
Vol.60「評価」
Vol.61(臨時増刊)「桂月・秋立つころ〜北上にて」
Vol.62「「古都・奈良でのはなし」
Vol.63「「今の若いものは・・・」
Vol.64「「朱夏の61年間と白秋2009」
Vol.65「「2009日本スプリント地図」
Vol.66「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第1回」
Vol.67「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第2回」
Vol.68「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第3回」
Vol.69「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第4回
Vol.70「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第5
Vol.71「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第6回
Vol.72「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第7回

Circle-JUVY General Manager OKUZAWA Yasuo