Vol.69 2010. 卯月
四季の風 ―乗って、向かって、横からうけて―」
第4回 (2010年4月8日)
 

T  スポーツとともに半世紀

  
 (3) 現役と指導者のはざまで

                                  【夢のまた夢】
 陸上競技を始めた中学1年の時の100m最高記録が13秒8の私でも夢はオリンピックであった。野球少年のほとんどがプロ野球選手を目指すように、簡単に口に出していたオリンピックという言葉ではあったが、年齢が上がるにしたがって私の脳裏を現実というものが占める割合はどんどん大きくなっていった。
 大学3年6月の日本選手権までは何とか日本代表に、などといった夢も見ることができた。半面、自分の成長率からすると「とんでもないことだ」と考える割合も大きくなってきていた。
 大学4年になるころには、アキレス腱を痛めていたこともあり、インカレのリレーで優勝することが私の夢となっていた。
 
 日本インカレの4×400mRで優勝してから、「自分には何かをまとめる力があるのではないか」と感じはじめた。そのことは「自分は競技者としてよりも指導者としてのほうが力を出せるのではないか」ということでもあった。
 私には現役時代の勲章がない。JAPANクラスの選手の指導者にはなれないことは目に見えていた。おまけに大学院にも行かないわけであるから、大学の指導者にはなれない、ということもごく当たり前の話として自覚していた。
 そうなると「栃木からの発信しかない」ということが私にとって当然の帰結であった。
 


                                      【強運】
 そんな私ではあったが「指導者としての運の強さ」は持ち合わせていたようである。
 
 吉岡隆徳 1909年島根県出身。日本人でただ一人100mの世界(タイ)記録を出した男。その時の記録10”3(1935年)。同時に吉岡は日本人でただ一人オリンピック100mにおいて決勝に進出した男でもある。場所はロスアンゼルス(1932年)。

 飯島秀雄 1944年茨城県出身。戦後の日本人でただ一人100mの世界ランクでトップに立った男。その時の記録10”1(1964年)同時に彼は日本人でただ一人ユニバーシアード100mにおいて優勝した男でもある。場所はブタペスト(1966年)。

 朝原宣治 1972年兵庫県出身。戦後の日本人でオリンピックの100m決勝に最も近かった男。4着Q(通過)の条件下5着。その差0.05秒。場所はアトランタ(1996年)。同時に彼は陸上競技短距離種目(4×100mR)で唯一オリンピックのメダルを獲得した男たちの中の一人でもある。場所は北京(2008年)。
 ちなみに、この3人が活躍したのは32年周期(8オリンピアード)であった。
 
  私は上記の3名の偉大なるスプリンターと数日間宿泊をともにしたことがある。
 
 吉岡先生とは1971年、越後湯沢にて。大学の合宿。ここでスタートの手ほどきを受けた。
 飯島さんとは1981年、東海村にて。日本陸連Jr.合宿。飯島さんは100m、私は200mのコーチとして、日本全国から選抜されてきた高校生の指導をした。
 朝原さんとは1991年、アメリカにて。日本陸連Jr.の代表選手とコーチとしてアメリカに3週間遠征した。
 以上、3人との邂逅は10年間隔であった。
 
 吉岡先生の指導は前半の走りに重きを置いていた。スタートが不得手の私は吉岡先生にとっては教えがいのない選手であったろう。ただ、大学の後輩だからという理由で指導してくれたのかもしれない。が、私にとってはこの時の体験が新里敏幸や栗原浩司を指導する際の大きな財産になった。
 
 飯島さんはメキシコオリンピック後プロ野球ロッテオリオンズからドラフト指名され代走要因として入団した。退団後スポーツ用品店を経営していたころこの合宿で出会った。「日本一の俺が後ろに走っているのではないかと思うくらい速かったよ、アメリカの連中の後半は。今、あの感覚を伝えられるのは自分だけのはずだから教えてやりたいんだよ。」
と、飯島さんは熱く語った。この合宿でいろいろな話を伺ううちに、師弟関係にあった吉岡―飯島ラインの半世紀近くのトレーニング法を、私なりに一気に結ぶことができた。そのことが、新里〜栗原という前半型のスプリンター指導から、後半型の大野功二へと変貌し齋藤仁志へと引き継がれることになった。
 この間の10年間は私にとって最も成長した時期ではなかったかと思っている。
 
 朝原さんはまだ同志社大学の1年生。アジア以外の国に遠征するのは初めてであり、まだ走幅跳の選手であった。遠征中にアトランタ空港に立ち寄った際、「5年後ここに戻ってくるのは(5年後開催されるアトランタ五輪に出場できるのは)朝原と大野」と私は言い切った。残念ながら大野はアトランタに戻ることはできなかったが、そのことで一貫指導の必要性をより強く感じることができた。また、C.ルイスのJr.時代のコーチと会話する機会にも恵まれ、Jr.競技者への指導イメージがうっすらとわかった。
 何よりも、その後の朝原さんに親近感を持って見ることができたことが私の感性を揺さぶり、指導者のエネルギー源として原油のごとく体内に蓄積されていった。

 世界で活躍した日本人スプリンター3人と(数日間とはいえ)寝食を共にし、20世紀前半から21世紀にかけての3/4世紀について観聴(みき)きできた幸運な男は日本広しといえどあまりいないはずである。
 この人たちとの邂逅は私の宝であり、まさに私の運の強さではないかと思っている。
 
 指導者としての運の強さはまだある。

  青戸慎司 1967年和歌山県出身。日本の男子選手で唯一夏冬オリンピックに出場した男。場所はソウル、バルセロナ、長野。しかも、全ての大会でベスト16に入選している。ソウル4×100mR・9位(記録的順では8位)、バルセロナ4×100mR・6位(戦後初の短距離種目入賞)、長野ボブスレー4人乗りブレーカー16位である。
 
 青戸は全日本中学100mのチャンピオンである。
 和歌山に松本一廣という偉大な指導者がいる。和歌山工業高校時代の教え子がオリンピックに2名6回出場しており、そのうちの一人が青戸である。
 私は青戸が中学3年のときに和歌山まで勧誘に行った。しかも旧知の松本を介してである。「何とお人よしな」と笑われそうな話である。結論を言えば、青戸は松本を慕い和歌山工業高校に進学した。繰り返すが、本当に馬鹿な話である。歴戦の将なら、こっそり勧誘に行ったであろう。普通の指導者はここで青戸とは縁がきれる。ところが、私の運の強さはここから始まる。それは、松本の心の広さにある。彼は、私が青戸を指導することを拒まなかったばかりか、逆に依頼するようにさえなったのである。これが松本でなければ青戸との縁は全くなかったであろう。運の良い人間と付き合うと、自らの運も強くなって行くのかもしれない。
 
 そして現在、中京大学で短距離を中心に指導する青戸は、今でも私を「師匠」と呼びながらどのような質問にも対応してくれる。
 バルセロナ五輪の4×100mR第一走者で音の壁(青戸はスタジアムの観客席をそう表現した)に向かって走った青戸こそ、私にオリンピックの臨場感とオリンピック参加選手の心を教えてくれるただ一人の語り部である。
 


                                    【あきらめ】
 12歳と3か月で陸上競技を始めた私の現役最後の大会は26歳10か月のときに宮崎県で開催された全日本実業団選手権であった。
 今の時代から考えれば「なぜそんな若さで引退なの」と思われるであろう。事実、陸上競技を始めた時から、長年私を指導してくれた中田さんも「まだ早い。まだやれる。」と説得してくれた。しかし、私のアキレス腱とハムストリングはボロボロになっており、これ以上走っても多くは望めないことを教えてくれていた。
 栃木に戻り教員になっていた私の働き場所は県立佐野商業高校定時制であった。
 自分の陸上競技の練習は午前中、午後からは全日制の授業と陸上競技部の指導、5時過ぎから定時制の授業、放課後はバスケットボール部の顧問として10時過ぎまで指導、部員を会社の寮に送り、家に帰るのは早くて11時という生活では身心の疲労は一日では取れなく、定時制勤務4年間の蓄積疲労でどうにもならなくなっていたのである。
 
 1978年(昭和53年)に佐野高校全日制に異動になった私はここを潮時と現役をやめようと思っていた。にもかかわらず、ぐずぐずと試合に出ていた。
 しかし、現役をやめる決意は9月になるころにはかたまっていた。理由は26歳の若さで栃木県の国体監督に推挙されたことにあった。
 会場は長野県松本市。私の指導したスプリンターが初めて全国的な大会に出場した記念の大会でもあった。選手の名は新里敏幸。彼は中学時代には13”8の選手であったが、見事国体県予選を突破してくれたのである。
 
 実はその前年、某大学の某先生に「短距離出身の指導者が跳躍や投てきの選手ばかり作っても評価はされない。悔しかったら短距離の選手を作ってみろ」と毒づかれたことがあり、見返す意味でも新里に賭け成功したのである。だが、この話を新里は知らない。「そんな理由で俺をしごいていたのですか」と怒られそうである。
 そのような出来事があってから、私の練習方法はガラリと変わっていく。そのころの私は、頭が冴えわたり次から次へと練習方法が浮かんできたものである。つまり、新里との出会い(某先生の叱咤激励?)が今の私の練習の原型となっているわけだ。
 今でも時々口ずさむ長野県民の歌「信濃の国」は、その大会期間中毎朝サブトラックに流れており、そのとき覚えてしまったものである。いや、忘れるわけにはいかない、私にとっては現役と指導者のはざまの曲でもあるのだ。
 


                                      【悩む】
 今から考えれば、私の闘争心に火をつけてくれた前述の某先生も現役と指導者のはざまで揺れていたころだったのかもしれない。
 どうも、現役に終止符をうつころは感情の起伏が激しくなりやすいのかもしれない。
 そこで、現役と指導者のはざまで揺れていたのではないかと思われる事例を出してみたい。
 断わっておくが、以下の事例は彼らの生き方に文句をつけるつもりで書いているわけではない。彼らと同じ立場であったなら私も同じような生き方をしていたのかもしれない。


 事例1
 AがB大学に入学し、一流競技者への道を歩み始めたころ、B大学のコーチはAが出場する大会に一緒に遠征し現役選手(?)として参加していた。
 彼は自分のアップをしながらB大学の選手を見ていたようだ。アドバイスも盛んにしていたことからそのことはうかがい知れる。彼としては「見ていた」のかもしれないが、私からすれば決して「観ていた」とは思えない。
 
 独り言その1
 「指導者というものは片手間でできるほど甘くはない。」
 

 事例2
 CはD大学に入学したがどうにも調子が戻らずあえいでいた。Cは1日で良いからJUVYに帰り練習をさせてもらえるよう哀願したが、「帰りたかったら退部してから帰れ」とまで言われ、解散時以外はいまだJUVYの練習会に参加がかなわずにいる。
 
 独り言その2
 「名選手であったかもしれないが、まだ名コーチになっていないということに気付かずにいると、いつのまにか選手は去っていく。コーチを選ぶのは選手である。」
 

 事例3
 Eは多くの勧誘合戦のすえF大学に進んだ。「練習は毎日見る」という言葉を信じて。
 入学して半年が過ぎたころ、私はEに「練習見てもらっているんだろう?」とたずねた。するとEは「週に1日くらいです。それも30分くらいかな」という驚愕の答え。これではまるで詐欺ではないか。
 
 独り言その3
 「勧誘は強化に包括されるけれど、イコールではない。」
 

 「選手優先主義」という価値観で生きている今の私にとって、そのような指導者は異次元の指導者としか映らない。
 


                                     【競技者】
 私は、現役をやめたころから「選手と指導者は違った意味での競技者である」と強く主張してきた。そう、指導者も競技を一生懸命しているのである。
 
 選手が怪我をすれば一緒に悩み、一緒に治そうと努め
 決してマル投げはせず、自分たちで解決しようと努める
 選手が勝っても決して自分が勝ったなどとは思わず、歓喜の輪からそっと離れ
 練習中は絶対に椅子に座らず、心を落ち着かせながら選手の間を歩きまわる
 過去は参考にしても、過去とは比較せず
 コンピュータで分析したことだけで解決しようなどとは決して思わず  
成育歴を含め、選手の全体を観聴き(みきき)しながら本質を理解しようと努め
 自分と接しているときの選手よりも接していないときの選手に思いをはせる
 
 独り言その4
 私は校長に赴任して以来、常々職員にも生徒にも「独立と共生の心」をもち合わせよ!と言ってきた。
 独立とは「自ら行動できる力」であり、共生とは「信頼できる力」である。
 「独立と共生の心」を持ち合わせた人間はどのような人間かと言われると、「宇宙の中心に向かってひかれたラインのまわりを公転しながら自転している人」の姿が浮かんでくる。
 宇宙の中心に向かうラインとは生きる上での原理原則と思っていただいてよいが、選手も指導者も、このラインが見えるようになるよう努めなければならない。
 
 現役時代に素晴らしい成果を残した人の多くは独立心旺盛である。ゆえに、自転は簡単にできそうだ。
 しかし、指導者としての下積み生活もあまりせずに一流選手を指導できる立場に立ってしまうと、共生の心が半端な状態で指導者人生を歩みだし、宇宙の中心に向かうラインを見つけられずに勝利礼賛思想に迷い込みそうで怖い。そのような考えで指導する方は宇宙で浮遊しているように見えてしまう。私にとって、そのような指導者に選手を預けることは本当に辛いことなのである。
 
 JUVYの選手たちよ!現役を終えたら、すぐに良い環境での指導者になりたいなどと努々思うことなかれ。
 良い環境に行くことより、良い環境にすることを考えながら指導者人生を歩みなさい!
 


                              【「はざま」それは昔】
 登山者はアタックルートを探すため、毎日山を見ることから始めるという。
 ルートが見つかったときから失敗は許されない。
 完璧な努力と集中力、奇跡的な好運に恵まれて登頂に成功する。
 だから栄光は一握りの登山者にしか与えられない。
 登山者を競技者と置き換えても登山者は許してくれるだろう。
 当り前の話だが、「散歩していたら富士山が見えたので、ついでに登ってきたよ」などということはありえないのである。少なくとも「私はジョッギングができるからオリンピックのマラソンを狙おうかな」などとは考えていない。
 
 「指導者の生き様は選手の走りに現れる。」
 選手としての競技者を早くにあきらめ、指導者としての競技者を長く続けてきた私のたどり着いた思いである。
 
 独り言その5
 評論家の小林秀雄は「知は情を説得できない」と言った。
 私は現役と指導者のはざまにいたころ、数えたら片手で余るほどの自分の成功体験や、安っぽい知識をひけらかしながら選手を納得させようとしていた。
 それから30年。
 私の指導は「学知と験智とが体内に宇宙を形成し、その宇宙の中からスピリチャルな感性で未来を探すもの」になった。
 そんなことをわかってくれる仲間を一人でも多く探し、一緒にスポーツを愛したい。
 

 今あらためてお願いしたい。
 現役から指導者への道を歩み始める時には、ぜひともルートを確認してから登頂を始めてほしい。
 頂点を極めたからこそ慎重に下山し、さらに高く険しい山を探し、アタックルートを探してほしい。
 
 校長室にいくつかのものが貼ってある。
 今、目の前にあるものは「雨ニモマケズ」の全文と、「毎日新人」と書かれた西藤宏司先生の書である。
 宇宙の中心に向かうラインのまわりを自転しながら公転していきさえすれば、ロンドンもリオも視界のなかにはっきり確認できるはずである。
 

 現役とはすばらしきものかな、されど指導者とはさらにすばらしきものなり。
 両者合わせて競技者という。


                                   

               
Vol.1 JUVY 創 設
Vol.2 理想の指導者とは
Vol.3 素晴らしき指導者
Vol.4 回顧・2005年
Vol.5 新春は箱根と共に
Vol.6 凛として颯爽と
Vol.7 眼のつけどころ
Vol.8 視点・感点
Vol.9 思い出に残る一言
Vol.10 新たなる旅立
Vol.11 JUVY誕生
Vol.12 春のスポーツシーズン到来
Vol.13 指導者としての実践力とは
Vol.14 ジュニアとシニア・その1
Vol.15 ジュニアとシニア・その2
Vol.16 わたしなりに言いたいことを…
Vol.17 「眼に見えない力」
Vol.18 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」
Vol.19 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」
Vol.20 「トーナメント・有限と無限の交差点」
Vol.21 「定石とひらめき」
Vol.22「合同練習会」
Vol.23「国民体育大会」
Vol.24「心・技・体」
Vol.25「再興」
Vol.26「神在り月」
Vol.27「修行」
Vol.28「言霊」
Vol.29「夢」
Vol.30「影響力」
Vol.31「健康」
Vol.32「我家の凜氣」
Vol.33「食」
Vol.34「インカレ」
Vol.35「2007年 JUVY TC前期総括」
Vol.36「今日まで、そして明日から」
Vol.37「国体関ブロ観戦記」
Vol.38「想いを文字で伝えるということ」
Vol.39「人間の運命について」
Vol.40「思いつくまま継走の如く」
Vol.41「広き世界」
Vol.42「スピード・スピード・スピード」
Vol.43「白と青、そして遊」
Vol.44「36−10」
Vol.45「この卯月に思ったこと」
Vol.46「スプリント」
Vol.47「”運”と”付”」
Vol.48「純粋にひたむきに」
Vol.49「オリンピックへの興味・関心」
Vol.50「ラストゲーム」
Vol.51「氣づき」
Vol.52「私見・学校というところ」
Vol.53「チーム」
Vol.54「遠征講習会」
Vol.55「蔵出し その1」
Vol.56「蔵出し その2」
Vol.57「Enjoy Baseball
Vol.58「ふるさと
Vol.59「夢舞台に向かって」
Vol.60「評価」
Vol.61(臨時増刊)「桂月・秋立つころ〜北上にて」
Vol.62「「古都・奈良でのはなし」
Vol.63「「今の若いものは・・・」
Vol.64「「朱夏の61年間と白秋2009」
Vol.65「「2009日本スプリント地図」
Vol.66「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第1回」
Vol.67「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第2回」
Vol.68「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第3回」
Vol.69「四季の風ー乗って、向かって、横からうけてー第4回

Circle-JUVY General Manager OKUZAWA Yasuo