Vol.52(2008. 12. 8.)
【師走の八】
「私見・学校というところ
 
 授業は参加するとおもしろい

 鹿沼東高等学校の校長となって早8ヶ月が過ぎた。その間、校長になってはじめて理解できたことが多々あった。今回は、(なるほど)と思ったことの一つである“授業観察”というものについて書いてみたい。
 
 授業観察とは、文字通り先生方が授業をしている教室等へ出向き、授業の様子を観察するものである。観察する側は校長と教頭の管理職、される側は教員である。
 観察という言葉はする側とされる側がはっきり区別されるのであまり使いたくはないのだが、システム上そのような言葉が使われているので仕方なく使っている。
 
 予告した授業にパイプ椅子と資料持参で教室等へ出かける。教室等と書いたのは、体育館、校庭あるいは調理実習室などでも授業が行われるからである。研究授業というものを経験した事のない教員はおそらくいないと思うが、授業観察なるものは研究授業とは多少異なる。形態としては、何気なく行って、普段着のままの教室等を見てくるわけである。研究授業で居眠りをするような生徒はあまり見かけないが、この授業観察では居眠りをしている生徒に何度か出くわした。とは言っても、授業観察が特別な授業であることには違いない。授業観察の時間、教師も生徒も緊張しないはずがない。見させていただく側の私でさえ、毎時間興味と緊張が交錯していた。
 
 何度か授業観察をしているうちに、生徒の側に立って授業に参加してみたらどうだろうか、ということを考えた。そう考え、その気分で教室に向かうようになってから、俄然授業観察の時間が面白くなってきた。
 
  高校時代の授業を思い出してみました。思い出すといっても授業の内容ではありません。そのころの自分の気持ちです。
 私の出身は県立佐野高校です。旧制中学の流れを引く男子校でしたから、その実態はおおよそ想像がつくと思いますので詳細は省きます。
 高校時代を思い起こすと、毎日が苦痛の連続でした。楽しかったのは、部活動と授業中脱線してくれた時の先生の話だけでした。家では毎日、その日出された課題と翌日の予習をするのに精一杯で、12時前に床につけることなどありませんでした。なにしろ、間違えた部分を100回書いて翌日提出といような拷問(?)もあったのですから。部活動の時間を除けば何が楽しくて高校に通っていたのかはわかりません。目指す大学に入ることだけを目標と考えさせられた(あくまでも受身でした)学校生活だったような気がします。しかし、そのような高校生活を過ごせたことに感謝しています。全く恨んではいません。

 そのようなわけで、生徒の側にたって授業に参加しているうちに、(授業を受けることはこんなに楽しいことだったのか)とわかってきた。
 なぜ、高校時代にこのような気持になれなかったのであろうか。
 今の私が高校生なら、授業は楽しくて、面白くて、よくわかる。
 ただし、今でも「これは○○試験(テスト)に出ますから要チェックです。」という言葉に対しては身構える。「試験に出る」といった、いわゆる脅されて学ぶことに対してトラウマになっていると気付いた。
 しかし、学校は進路指導を無視して授業を展開するわけにはいかない。進路指導は試験を有効に活用しなければならないからである。学校と生徒、立場による思いの違いは大きいのである。
 

 
 授業をわかりやすくしてくれる教科ごとの『見方・考え方』
 
 数学科某教員の指導案に『数学的な見方や考え方』の具体的な考え方として、
@ こうやると簡単
A こうやると正解
B こうやると便利
 とあった。もともと数学の指導にはスポーツの指導に近いようなところがあると感じていたが、まさしくそうであった。@ABとも、まさに目から鱗である。
 
 理科総合では『気体1molの体積とアボガドロの法則』の実験に参加した。そこで『事実を知る』ことと『なぜそうなるかを観ながら知る』ことには大きな違いがあることに気づいた。
 
 地歴公民では『1192年鎌倉幕府成立』で『なぜ鎌倉だったのか』を考えることが、真の学問の扉を開くことではないか、と思った。
 
 そうなると、私の専門教科である『保健体育的な見方や考え方』はどんなものか、あらためて整理したくなる。
 
 金原勇先生を知らない体育教師はいないと信じています。それほど金原理論は強烈です。金原先生は私の大学時代の恩師です。先生から学んだことは現在の指導理論のベースになっているといっても過言ではありません。卒業後も長文のお手紙をいただき激励されたり、新たな知見をいただいたりで多大な影響を受けてきました。『保健体育的な見方や考え方』について考えると、真っ先に浮かぶのは金原先生のおっしゃられていた『体育の生活化』『生活の体育化』という言葉です。
 
 あらゆる教科において『見方や考え方』は生活の中で使われて益になるものでなくてはならない。もちろん保健体育も同様であり、
@ こう考えると健康的
A こうやると健康的
などといったことが、数学的な見方や考え方と同じように浮かんできた。

 残念ながら、受験に直接関係ないから保健体育は学問ではない、と思われる方がいるようです。確かに、スポーツの語源は『息抜き』などの意味がありますが、受験勉強の息抜きに保健体育の授業があるなら、根本的に学習指導要領から変えていかなければなりません。そのことについて説明する紙面はありませんが、そのような発想は『健康的な生活やスポーツを通した幸福な人生』を送るための阻害因子になっているのかもしれません。
 
 

 保健体育の学力とは
 
 少々話が変わることをお許し願い、学力について考えてみたい。
 
 評価とは目標にどこまで迫り得たか(得ているか)を判断するものである。
 もちろん子供たちの評価は教師の評価が中心になるわけであるが、それに加え、生徒の自己評価や第三者の評価も加え総合的に判断しなければならない。
 学校現場で評価・評定をする場合には、一般的には学力というものを避けては通れない。
 
 学力テスト的な内容をもって評価できる教科はよいが、体育ではまずもって“学力とは何か”ということを整理しなければならない。
 ところで、体育の学力について『体力テスト』の結果と答えた教師がいた。このことから(あくまでも一般論であるが)、体育の学力は実技における結果ということがうかがいしれる。
 
 保健体育を学ぶ際の基礎・基本は『人間が生きていく上で絶対不可欠とされる心身の健康や生存のための安全の問題』であり、到達目標は『生活の中における体育的な発想や実践』であろう。
 仮にそう考えると、保健体育で学ぶ“健康に関する知見や運動処方論(体力トレーニング論)など”を参考にしながら生活を営むことのできる能力を培うことが学力をつけてやることではないか。
 
 『生涯にわたって幸福な人生を過ごすため保健体育で学んだことをベースとして実践する力』が保健体育の学力であるならば、この学力を在学中から発揮できる生徒が保健体育の学力の高い生徒と言えるのではないか。そのような考えに基づいた保健体育の学力を運動部活動等で応用できる生徒には高い評価をしてやらなければならないのは当然である。
 
 

 意志力で打ち克つということ
 
 授業が楽しいなどと思う生徒はなかなかいないと思う。少なくとも私はそうであった。生徒になりきれなくても、生徒の気持ちで座席に着いていたら『心理的に要求していないことを無理矢理行うことで、意志力は高められるのか』ということに思いが馳せた。
 
 本当に好きなことは長時間続けられる。そこには強靭な意志力が働く。部活動のように好きなことをやる場合に使われる意志力である。このような場合、かなり苦しいことでもやり通すことは不可能ではない。そのような意志力を時に美化されることがあるが、意外に本人は意志力が高いとは思っていないのではないか。
 
 意志力とはそのように恰好の好いものだけではないようだ。
 
 高校における学校生活では、今快適なことをすべきか、将来快適となるであろうことをすべきかを考えさせ、後者を優先し指導することが多い。そのことは進路指導の充実を目標の一つとする学校が多いことでもあきらかである。
 それならば生徒に対し、将来快適となるためには今何をすべきか、ということへの自覚を促してから意志力を高める必要がある。このような自覚が高まれば強い意志力が培われるのではないかと考えられるからである。ただし、このような場面での意志力は、前述のような場面での意志力とは微妙に異なる意志力なのかもしれない。
  したがって、両方の意志力が備われば、事を成すにおいて『鬼が金棒を二本持つ』ようなものであるはずだ。
 
 多くの学校で文武両道を推進していますが、意志力の観点からすると文武両道の目的は案外こんなところに隠されているかもしれません。
 私の認識では、文武両道は目指すものではなく貫くものです。文武両道を貫くためには強靭な意志力が必要とされそうですが、何気なく文武両道を貫いているような生徒が多い学校にはあこがれますね。そのような学校には、“学問も趣味も人生を有意義にするために必要不可欠なもの“であることを知っている生徒が多いのでしょうね。個人的には武井君(JUVY会員・群馬大学医学部の陸上大好き人間)が話してくれた現慶應義塾野球部3年(前橋高校卒・東京六大学野球春季リーグ戦リーディングヒッター)小野寺君の高校時代が浮かびます。

  


 知識とは学問に役立つものだけか
  
 授業ではそれぞれの教科に関する知識を教えることが一般的であるが、子供たちにとっては『常識や礼儀』について知ることも知識の獲得の一つではないかと思っている。
 子供たちは年齢に応じた『常識や礼儀』などを見て学ぶこともあろうが、多くは教えられ、諭されて身につくものではないだろうか。とすれば、授業は最高の『常識や礼儀』を指導する場でもあるはずだ。無理やり徳育を独立させる必要はない。『チャイムtoチャイム』『礼に始まり礼に終わる』『丁寧語・尊敬語、謙譲語の使い方』等々、である。
 
 近頃の若者が礼儀を知らないのではなく、近頃の大人が教え方を知らないのではないか、とも感じる。
 知識の獲得により意識が変わり、意識の変化から行動が変容しなければ教育者にはむなしさしか残らない。
 
 家庭の代わりを学校ではできないし、学校の代わりを家庭ではできないのもごく自然の話である。学校では学校として教えなければならない知識を与え、子どもたちは多くの知識を身につけるという学習をしていかなければならない。

 授業で知識を得ているのは生徒ではなく、教材研究をしている教師だけとなると
  “学校って何”ということになりかねません。 
 学校とは得られた知識をもとに、自立と創造性を高めるための学習の場でなければなりません。
 知識を頭に詰め込むだけの方法や頭に知識が入っていることだけを誇りとするような人に、私は魅力を感じません。

 

  「志を持て 気力を養え 知識を磨け 行動せよ」 (吉田松陰)



 旅人の目・住民の感覚

 校長室からは日常の授業を見ることはできないのです。「校長の自己満足で学校が混乱に陥ることのないよう注意したい。」そんなことを思うこの頃です。
 
 いよいよ結びです。今回のテーマを再確認する意味で近畿医療福祉大学・岩井忠彦氏の言葉を引用させていただき、2008年版“JGMの四季の風”を閉じることとします。

 「旅人の目と住民の感覚は違う。緑の野山や清流は旅行者には貴重な自然と見えても、そこで生活している人たちには不便や過疎の代償であることが多い。
 その日々の苦労や生活は、通り過ぎるだけではなかなか理解できない。
 学校も同様で、特別な活動は外からも見えやすく、時にはニュースになることさえあるが、授業や部活動がたんたんと続く平凡な日々は話題にならないし、注目もされない。
 しかし、学校教育の本質は、むしろそのような日常にこそあるのではないか。」

 
 
 『選抜』は青春、『総体』は朱夏、『国体』は白秋、そして『箱根』は玄冬。
 スポーツの大会を表す言葉が季語になっているようでもありますが、『玄冬=箱根』が紙面を賑わす時期となりました。四季の移り変わりは早いものです。
 皆さんよいお年をお迎えください。
  

       
Vol.1 JUVY 創 設
Vol.2 理想の指導者とは
Vol.3 素晴らしき指導者
Vol.4 回顧・2005年
Vol.5 新春は箱根と共に
Vol.6 凛として颯爽と
Vol.7 眼のつけどころ
Vol.8 視点・感点
Vol.9 思い出に残る一言
Vol.10 新たなる旅立
Vol.11 JUVY誕生
Vol.12 春のスポーツシーズン到来
Vol.13 指導者としての実践力とは
Vol.14 ジュニアとシニア・その1
Vol.15 ジュニアとシニア・その2
Vol.16 わたしなりに言いたいことを…
Vol.17 「眼に見えない力」
Vol.18 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」
Vol.19 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」
Vol.20 「トーナメント・有限と無限の交差点」
Vol.21 「定石とひらめき」
Vol.22「合同練習会」
Vol.23「国民体育大会」
Vol.24「心・技・体」
Vol.25「再興」
Vol.26「神在り月」
Vol.27「修行」
Vol.28「言霊」
Vol.29「夢」
Vol.30「影響力」
Vol.31「健康」
Vol.32「我家の凜氣」
Vol.33「食」
Vol.34「インカレ」
Vol.35「2007年 JUVY TC前期総括」
Vol.36「今日まで、そして明日から」
Vol.37「国体関ブロ観戦記」
Vol.38「想いを文字で伝えるということ」
Vol.39「人間の運命について」
Vol.40「思いつくまま継走の如く」
Vol.41「広き世界」
Vol.42「スピード・スピード・スピード」
Vol.43「白と青、そして遊」
Vol.44「36−10」
Vol.45「この卯月に思ったこと」
Vol.46「スプリント」
Vol.47「”運”と”付”」
Vol.48「純粋にひたむきに」
Vol.49「オリンピックへの興味・関心」
Vol.50「ラストゲーム」
Vol.51「氣づき」
Vol.52「私見・学校というところ

Circle-JUVY General Manager OKUZAWA Yasuo