Vol.50(2008. 10. 8.)
【神無月の八】
ラストゲーム
 
             第1章 最後の早慶戦
  【禁じられた野球に、愛と情熱をかけた人々の感動の実話!】
 

                  (1)
 
 あの日、僕たちの願いが、奇跡を生んだ。
 65年の時を経て、今も語り継がれる伝説のゲーム
 そこには選手たちの熱き想いと、大人たちの切なる願いがあった。
 
 青い空の下、グランドで無心に白球を追いかける若者たち。1943年、太平洋戦争が彼らから青春の日々を奪おうとしていた。「野球は敵国アメリカのスポーツだ」と六大学野球が廃止、さらに学生に対する徴兵の猶予が停止、彼らはバットを捨て、銃をとらねばならないのだ。
 しかし、早稲田大学野球部顧問の飛田穂州は、出陣のその日まで学生たちと野球を続けると誓う。野手の戸田順治は、厳格な父から「この非常時に」となじられたが、志願した兄の「戦争は俺に任せて、お前は野球をやれ」という言葉を胸に練習に励む。「試合がしたい」選手たちの願いは、ただそれだけだった。
 ある日、慶應義塾塾長の小泉信三が、飛田に「早慶戦」を申し込む。二度と帰れないかもしれない若者たちに生きた証を残してやりたい ―― 小泉の切なる願いを飛田も喜んで受けとめるが、早稲田大学総長は頑として拒絶する。飛田の強行突破で、遂に幕を開ける早慶戦。それは、別れであると同時に、明日への希望に満ちたゲームだった……。
 (監督:神山征二郎、企画・制作・配給:シネカノン、映画「ラストゲーム 最後の早慶戦」パンフレットより)

 

                  (2)
 
 JUVY総務担当理事の菅原さんから映画の招待券をいただいた。題名は『ラストゲーム 最後の早慶戦』とある。劇場で観たのがいつかわからないくらいご無沙汰している映画であるが、嫌いではない。何とか都合をつけたいと思っていたら、学校祭の代休があることに気がついた。
 その日9月8日、私はシネマ佐野に向かった。
 
 この映画は野球の早慶戦を通して戦争というものの悲惨さを見事に描いている。
 全編を貫く歴史的事実は2本のレールに乗って進む。片方のレールを走る車輪は早慶戦開催に向けて進み、もう片方の車輪は戦時下の流れにしたがって進む。車輪の上の箱には当時の体育会の代表的学生生活が乗っている。
 
 最近の体育会の生活は倅が立教と慶応で4年間過ごしたことからある程度わかっている。それに、自分の学生時代の生活を加味すれば、その生活ぶりはイメージにそれほど遠くはないはずである。いや、おおよそ間違いなかろうと思う。
 
 かれこれ40年ほど前、大学に合格し集合がかけられ初めて合宿所を訪れた私は、下足で合宿所に上がり先輩に怒鳴られた。
 「ここは下足禁止だ!上履きに履き替えろ!」
 今から10年前に行った立教の合宿所も8年前に行った慶応の合宿所も同じようなものだった。映画の中でも『下足禁止札』があり、思わず人知れず小さく吹いた。(同じだ)と。
もっとも、映画のセットは時代考証通りの建物であったのだろうが、きれいに作られすぎていた。あれなら下足で上がる者はいないだろう。と、これはどうでもよい話である。
 どうやら、『劣悪な環境でも好きなことは続けられる、というより気にならない』それが戦前の学生からつい最近まで引き継がれてきた体育会的精神だったようだ。

 
                  (3)
 
 この映画では、『好きなものに命をかける』ことを認めあう者たちが戸田順治を中心に単心円で波紋が広がる。
 野球部の同僚、組織の内堀的役割を果たす関係者、家族、そして組織の外堀的役割で応援する地域の住民や応援団、そして観客へと広がり、素晴らしいエンディングをむかえた。
 
 今この文章を書きながら、映画を創るための底力というものを十二分に感じさせられている。私の拙い文章では、とてもではないが訴えることへの表現レベルが低すぎる。
 
 応援者は時には見方さえも敵にまわさなければならないことがある、という言い方をわかっていただけるであろうか。
 戸田順治の母親(富司純子)が戦死した順治の兄を想い、順治に野球をさせてやりたい一念で、夫の説得に対して、
 「私はそんな立派な母親ではありません」
と泣き崩れる迫真の演技に、私は涙でスクリーンを直視できなかった。
 自分ではどうにもできない世の中で、子供を愛し、子供を理解し、子供の行動を信じて応援する母親のすさまじいばかりのエネルギー。
 大切な複数の家族。長男を奪われ、夫の考えを否定し、二男を肯定する。すさまじい愛と葛藤の表現である。

 
                  (4)
 
 無念さを超える学徒出陣、そして帰らぬ人。もちろん、帰らぬ人は学徒だけではない。戦争という悲惨な事実は、『可能性』という言葉を『絶対的不可能』という言葉に変え、『物的財産』はもちろん、多くの『人的財産』を無抵抗かつ全面的に放棄せざるを得なかった。
 
 この映画を見て、早慶戦という響きにごまかされてはいけない。
 ラストゲームができずに散ってしまったスポーツマンも数多くいたのである。
 佐野市の生んだ偉大なる長距離走者大澤龍雄選手、棒高跳友情のメダルで有名な大江季雄選手、ロスアンゼルス五輪馬術障害飛越競技金メダリスト西 竹一男爵、皆帰らぬ人となった。
 皆、もう一度会いたかった人がいっぱいいたろうに…。
 性格から風貌、体つきまで親族のうちで私が最も似ていると祖母に言われた、その人(叔父)に私は未だ会えないでいる。
 

                  (5)
 
 今でも東京六大学野球の第8週節 ―そのシーズンの最終戦― は『早慶戦』(慶應側は『慶早戦』という)である。
 現在はある意味平和な世の中である。65年前の早慶戦と同じ早慶戦ではない。
 しかし、満員の神宮球場で雌雄を決する東京六大学野球最終戦は早慶両大学4年生にとっては万感の思いを込めたラストゲームであるに違いないし、一生の宝が詰まったゲームである。
 
 次章はラストゲームとはいえ前章とは全く状況が違うラストゲームである。
 早慶戦のようには観客は集まらない陸上競技を愛し、愛するが故に故障にもめげず、走り、そして跳び続けてきた男のラストゲームの話である。


 
            第2章 最後のインカレ
【怪我に付きまとわれながらも夢を追い続けたある学生競技者の話!】
 

                  (1)
 
 矢代雄紀。東海大学4年。同大学陸上競技部副主将。跳躍ブロック所属。
 これだけが、現在の彼を紹介する言葉である。
 彼は全日本中学チャンピオンである。そこから6年間タイトルとは無縁である。そう言うと、(早熟か)と思われるであろうし、そう思われても仕方ない、しかし真実は違う。
 
 彼は佐野西中学校時代、栃木県中学陸上界で名伯楽と呼ばれる新井義之先生の指導を受けた。したがって私にとっては孫弟子にあたる。中学3年時はハードルと走幅跳で県内無敵。全日本中学では見事に走幅跳を制した。
 
 翌年佐野高校に入学、国体少年B走幅跳で4位に入賞した。
 冬季トレーニングを順調に消化した彼に魔がさしたのは2年生になった4月の春季大会である。走幅跳の踏切で『脛骨』と『ひ骨』(膝と足首を繋ぐ骨)を複雑骨折してしまったのである。
 入院した彼は必死にリハビリに耐え、1年間のブランクを乗り越え、3年時にはボルトの入ったままの足で、全国高校総体には三段跳、国体には走幅跳で出場するまでになった。   
 彼の高校時代のタイトルは『怪我にも負けず闘った』形のない勲章である。

 
                  (2)
 
 前述のとおり、彼は東海大学に進学した。
 植田監督の「将来性に賭ける」という言葉とは裏腹に、3年時まではインカレには選手として出場することはなく、補助員として参加する平凡な部員であった。
 
 JUVYで活動をしていた彼に最初の転機が訪れたのは2年生の夏のことである。
 スプリントに目覚めた彼は、高校時代の100m11秒4程度の力を一気に10秒7台まで高めることに成功した。(その点、矢代にとっては大先輩、本県初の16mジャンパー篠原修の大学〜社会人のころによく似ている。篠原は学生時代の100m11”4を1年間で10”9にまで伸ばし、三段跳の記録向上に結び付けた。)
 
 2年の冬のJUVY合宿のことである。矢代は、
 「うちの大学には幅跳の強いのがいるのでインカレに出るのは無理かもしれません…」とふと漏らした。それが2度目の転機であった。私は、
 「三段の選手はそれほどいないだろう。三段をやればいいじゃないか」
と言った。
 そしてまもなく3年になろうとする3月から本格的に三段跳に挑戦した彼は、何とか関東インカレの標準記録を突破し出場した。出場しただけではなく、いきなり表彰台に乗った。これが第3の転機であった。その勢いは衰えず、迎えた全日本インカレで、追風参考ながら16mを超え、第2位となった。高校以来練習をしていなかった三段跳において、わずか4ヶ月で日本の一流に手が届くところまで来たのである。
 
 そうなると、欲が出る。欲が出ればオーバーワークになる。
 秋には副主将に指名された。陸上競技日本一の大学の副主将である。
 そうなると、責任が圧し掛かる。責任感はオーバーワークを引き起こす。
 足の痛みに耐え、メディカルチェックもできないまま、今年の関東インカレを迎え、何とか入賞した。
 試合後レントゲンを撮ると疲労骨折痕の亀裂が見えた。現役2度目の骨折であった。
 
 夏、傷は癒えたものの上向きの状態とまでは行かずに、全日本インカレに突入となった。

 
                  (3)
 
 ◆9月11日、矢代からのメール。
 「明日から全日本インカレがはじまります。入学してからの4年間というのはほんとうに早かったなと感じています。何も言わずに黙って信じてきた道を進みたいと思います。」

 ◆同日、私からの返信。
 「1973年の全日本インカレは10月の最終週でした。私にとって最後となるインカレの出場種目は200m、4×100mR、4×400mRでした。東京教育大学のチーム名で出場するのは大学としてもこれが最後の大会で、次年度からは筑波大学になるという、我々にとっては歴史的な大会でした。特に、短距離ブロック長の私は両リレーで表彰台という目標に向かって走りました。そこで学んだことは今でも生きています。試合前日は妙に感傷的になりましたが、始まれば目標に向かって一直線でした。結果はマイルリレーで奇跡の優勝。東京教育大学全運動部唯一の優勝でした。
 一瞬一瞬を本気でやればよい。飯を食う時も、床に就く時も、その瞬間、瞬間を、(こんな気持ちで行動するのは最後なんだ)と思いながら、良い意味その状況を目いっぱい楽しめればよい。明日は9時頃競技場につきます。」

 ◆同日、矢代から再送信。
 「不思議と自分も先生と同じく感傷的になっています。夕方、大学構内を散歩しました。屋上に立ち高台から大学を見下ろすと4年間の思い出が頭の中を走りぬけました。いてもたってもいられなくなり、4年間一緒に成長しようと励んできた陸上競技部の友達に感謝のメールを送りました。「ありがとう、明日すべてをおいてこよう」と。
 明日からよろしくお願いします。22歳になった矢代雄紀の姿を感謝の気持ちをこめて先生にお見せしたいと思います。涙を流さぬようにします。」

 ◆9月12日、大会当日、私からのメール。
 「おはようさん。(Ohayoh−sun)
 素晴らしい天気です。結果はどうなろうと関係なし!大学陸上生活の最後を内外からしっかり見届けてやるから安心して一日を過ごしなさい。明日からのことは明日以降に考えればよい。今日一日、慌てたり、近道をしようとしないことです。今日という日をゆっくりと時間を進めないとせっかくの一日があっと言う間に終わってしまい、印象が薄れます。
 それでは競技場で。」

 
                  (4)
 
 私の回顧である。
 
 1973年10月28日。東京・千駄ヶ谷、国立競技場。全日本学生選手権。
 夕刻、雨もあがりマイルリレー決勝に出場する選手32名は招集を完了させ、地下通路を不安と緊張のまなざしでスタート地点に向かう。薄暗く狭い通路を歩くことおおよそ100m。
大きなシャッターの端にある小さな入口をくぐり抜けるといきなり視界が広がる。決戦の地に足を踏み入れる。しかし、覚悟はまだ決まらない。負けても命を奪われるわけではないのに息苦しいのはなぜだろう。流しをする。スパイクを履く。スターティングブロックをつける。ウェアを脱ぎ、ランシャツ、ランパンになりスタート地点に向かう。バトンを右手に持つ。「いちについて」。静寂が訪れる。
 「ようい」までのおおよそ20秒の間に静寂なはずのスタジアムなのに耳に入ってきた音がある。それは神宮球場から流れてくる、早慶戦の応援の響きとわかったのはずっと後のことであった。あちらの4年生もラストゲーム、私もラストゲームだったのであるが、こちらは大学としてのラストゲームでもあった。
 
 我々は奇跡の勝利をおさめた。しかし、数時間前に行われた4×100mRでの表彰台に乗ることはかなわなかったのである。(注:前日行われた4×100mR決勝の際、写真判定装置がスタート後故障し、着順判定不可となり翌日再レースが行われたが、順位は4位に終わった)マイルリレーアンカーの松本君と私(3走)は4×100mRにも出場していたが、1走の品田君(4年)、2走の梅村君(4年)は夢かなわずに最後のインカレを終えていた。
 合宿所に戻り、勝利の美酒に酔っていた時、後輩のH君がぼそっと品田君に話しかけたのを聞いて、私は自分の傲慢さと我儘さを知った。
 「4継が終わり、皆がマイルの準備に入っている頃、一人黙々とダウンジョッグをしている品田さんを見て、私は涙が出てきました。」
 その品田君が私のマイルリレーの付き添いをしてくれたからこそ私は力を出せたのに…。
 
 「脚を切るなら死んだほうがよい」
 と言って、下肢切断手術を拒み、壮絶な癌との闘いを続けた梅村君は、昭和48年の全日本学生における東京教育大学リレー6人衆の中で最初に天国に赴いた。2年前のことである。  
 彼は大学卒業後きっぱり陸上競技の現役から足を洗った。
 彼にとっては、あの時のインカレが人生のラストゲーム…、だった。



           第3章 夢をあきらめない
   【若者が輝いてみえる時、大人はその輝きを見届けなければ!】
      
                  (1)
      
 (前略)自由競争が過熱するといきおい「一番手」に視線は集まる。渦中の者は、ただ一本のレールの上を人よりも早く、前に前に進むことを自己目的化するようになる。しかし、しょせん、「一番手」はただ一人であり、小差の二番手であろうと、負けは負けである。だが、圧倒的多数者は「二番手」「三番手」のものであり、「一番手」「金メダル」こそ勝者の証し、という価値観の下では、「二番手」以降は凡庸な群集として退けられることになる。世界が「一番手」を競い、「金メダル」の個数を競っている以上、日本だけが悠長に構えるわけにはいかない、というのももっともだが、よくよく考えると「一番手」は「二番手」以降の多数者の中から生まれる。「二番手」「三番手」に固有の価値を認め、そこに到達した価値を認め、そこに到達した努力を報い、賞賛するという発想こそ大事ではないか。
    (時事通信社・内外教育「二番手」 国立教育政策研究所・葉養正明著より)

 
 勝ちたいという願いは誰にでもある。それを思想にまで昇華させると『優勝劣敗』という言葉となる。しかしそれはあくまでも個人の哲学にとどめなければならない。個人の内面で育て、外に出さないという条件であるならば納得もいく。
 しかし、一般的には勝った者が優れ、負けた者が劣っているという『優勝劣敗』思想は『勝利至上主義』につながり、現代に生きる人間としては絶対に持ってはならない。
 それでは我々はどのように『優勝劣敗』思想を昇華させてやらなければならないのであろうか。
 

                  (2)
 
 最後の勝利は、最後までくじけない闘者に帰する、とは理論としては誰も承知しているが、さて人生の実践上においては、人はしばしば早く絶望して、未敗に敗れ去るのである。その誤りを戒めるものは、ただスポーツの体験のみだ、といったら、それは勿論いいすぎだが、スポーツの体験が痛切にそれを教えることは間違いない事実である。
  (慶応大学出版会・小泉信三「練習は不可能を可能にす」(スポーツと教育)より

               
 矢代雄紀が目標としてきた、最後のインカレで日本一になる、という夢は淡くも消えた。
 彼の日本インカレは学生競技者としてのラストゲームであった。
 そこには、『映画・最後の早慶戦』と重なる思いも否定することはできまい。それは彼にとって、大学陸上競技生活との別れであると同時に、明日への希望に満ちたゲームであったからである。彼は大学院に進学しさらに深い陸上競技を追求する。
 

                  (3)
 
 栄光を知る者が再びの栄光を目指し闘い続けるという底力は人間の輝きを一層引き立てる。そのような輝きを持てる若者を我々大人は大切にしてやらなければ、と矢代雄紀の生き方を見ながら強く思った。
 そして、そのような底力はスポーツに本気で打ち込んだ者に優先的に与えられるはずである。
 
 選手が時代に乗ると、大衆は『期待』という無責任な応援をする。
 しかし、応援する者は選手が『期待』に応えられなければ、選手の努力を無視し、彼らをいち早く忘れようと置き去りにする。それだけでなく、その場から逃げるように去る。
 
 今回のインカレで発熱をおして200mで逆転勝ちした齋藤も、ファール病から抜け出せずに逆転を許して2位に沈んだ新村も、決勝に残りながらスタートラインに立てなかった吉永や田中も、昨年のチャンピオンでありながら大会にエントリーされることなく競技場で地団駄を踏んでいた伊丸岡も、ラストゲームの意味を知ったと思う。
 
 彼らは皆JUVYのメンバーであり、私の弟子でもあり、応援者する側から見れば皆平等である。我々は決して逃げ去ることはしない。
 この大会を契機に、彼らの一段と輝く姿を追いかけてみたい、と思いながら大分に旅立ちます。
 

       
Vol.1 JUVY 創 設
Vol.2 理想の指導者とは
Vol.3 素晴らしき指導者
Vol.4 回顧・2005年
Vol.5 新春は箱根と共に
Vol.6 凛として颯爽と
Vol.7 眼のつけどころ
Vol.8 視点・感点
Vol.9 思い出に残る一言
Vol.10 新たなる旅立
Vol.11 JUVY誕生
Vol.12 春のスポーツシーズン到来
Vol.13 指導者としての実践力とは
Vol.14 ジュニアとシニア・その1
Vol.15 ジュニアとシニア・その2
Vol.16 わたしなりに言いたいことを…
Vol.17 「眼に見えない力」
Vol.18 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」
Vol.19 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」
Vol.20 「トーナメント・有限と無限の交差点」
Vol.21 「定石とひらめき」
Vol.22「合同練習会」
Vol.23「国民体育大会」
Vol.24「心・技・体」
Vol.25「再興」
Vol.26「神在り月」
Vol.27「修行」
Vol.28「言霊」
Vol.29「夢」
Vol.30「影響力」
Vol.31「健康」
Vol.32「我家の凜氣」
Vol.33「食」
Vol.34「インカレ」
Vol.35「2007年 JUVY TC前期総括」
Vol.36「今日まで、そして明日から」
Vol.37「国体関ブロ観戦記」
Vol.38「想いを文字で伝えるということ」
Vol.39「人間の運命について」
Vol.40「思いつくまま継走の如く」
Vol.41「広き世界」
Vol.42「スピード・スピード・スピード」
Vol.43「白と青、そして遊」
Vol.44「36−10」
Vol.45「この卯月に思ったこと」
Vol.46「スプリント」
Vol.47「”運”と”付”」
Vol.48「純粋にひたむきに」
Vol.49「オリンピックへの興味・関心」
Vol.50「ラストゲーム」

Circle-JUVY General Manager OKUZAWA Yasuo