Vol.42(2000. 2. 8.)
【如月の八】
 「スピード・スピード・スピード

 
   札 幌
 
                    (1)
 
 あの時、何故行かなかったのだろうか、北の大地SAPPOROに。
 
 理由はいくつかあった。
 まず、僚友品田君の兄がオリンピックの選考にもれたこと。
 次いで、適当な交通手段がなかったこと。
 そこに、経済状況が追い打ちをかけたこと。
 何よりも、1972年のシーズンに賭ける思いが強く、練習を休むことに対する罪悪感が強かったこと。
 
 品田君の兄・公博氏は1949年5月27日の生まれであるから札幌オリンピック当時は23歳。173cm、72kgであるから、体格的にはごく普通の成人男性である。しかし、この兄弟のダッシュ力は素晴らしく、その血筋は現筑波大学の直宏君にも受け継がれている。三省堂書店に勤務しながら競技を続け、1976年インスブルック五輪(オーストリア)ボブスレーの日本代表となり、2人乗り22位、4人乗り18位という結果を残した。
 
 私が大学に入学したのは1970年であるから、札幌オリンピックが開催された1972年2月といえば、まもなく2年が終わろうとしているころである。
 当時、品田君は帰省の時期になると、どのような方法で帰るか、常に悩んでいた。
 航空機のスカイメイト制度はいわゆるキャンセル待ちであるから必ず乗れるわけではない。国鉄(現JR)と青函連絡船の利用では1日かかる。こちらも座席確保の保証がないし、気が遠くなるような忍耐が必要であるらしい。
 当時私は月々2万から3万円の仕送りで生活していた。授業や練習があるから、昼間のアルバイトはできない。夜、家庭教師をしていたが収入はたかが知れている。後輩を連れて1回飲みに行けば終わりである。札幌に行くからと言って1ヶ月の仕送りと同じくらいの金を親に工面してもらうことはできなかった。
 
 というわけで札幌行きはあえなく中止。
 そのおかげか、冬の練習は充実し、この年は春先から絶好調。走るたびに自己新連発であった。しかし、夏以降はアキレス腱炎に悩まされ、日本インカレ、国体とも撃沈した。そのことはここでは全く関係ない。
 

                    (2)
 
 今年の冬季国体は長野県下で開催されている。
 長野に行く前に、映画「札幌オリンピック」を見ることにした。冬の競技のイメージを膨らませるために、である。
 監督は先月の四季の風に取り上げた篠田正浩氏であった。
 
 札幌オリンピックは1972年2月3日〜2月13日の11日間札幌を中心に開催された、アジア初の冬のオリンピックである。
 映画を見ていたら昔の記憶がよみがえってきた。もう35年以上も前のことである。
 スキージャンプ70m級の日本のメダル独占(笠谷幸生、今野昭次、青地清二)、スピードスケートのアルト・シェンクの3個の金メダル、フィギュアスケートは何故か1・2位より3位のジャネット・リン等々。実に懐かしい。
 
 懐かしさと言えば、何よりも「虹と雪のバラード」(河邨文一郎・詩)である。
 
 「いつも耳の奥で虹と雪のバラードが響いていました。」(笠谷幸生・談、「虹と雪のバラード」詩碑建立期成会事務局HPより)
 
 1 虹の地平をあゆみ出て
   影たちが近づく 手をとりあって
      町ができる 美しい町が
      あふれる旗、叫び、そして唄
   ぼくらは呼ぶ あふれる夢に
   あの星たちのあいだに眠っている北の空に
      きみの名を呼ぶ オリンピックと
 
     2 雪の炎にゆらめいて
       影たちが飛び去る ナイフのように
          空がのこる まっ青な空が
          あれは夢?力?それとも恋
       ぼくらは書く いのちのかぎり
       いま太陽の真下に
          生まれかわるサッポロの地に
          きみの名を書く オリンピックと
          生まれかわるサッポロの地に
          きみの名を書く オリンピックと

 
 この唄は多くの歌手が歌ったらしいが、結局トワ・エ・モアが最もヒットした。
 私はトワ・エ・モアという歌い手に好感をもっていたがそれだけではない。
 この唄は何とも形容しがたい不思議な魅力で私の心身(からだ)を溶かしていた。溶かしたのはおそらくオリンピックという摩訶不思議な言葉かもしれぬ。
 “雪の炎にゆらめいて”がわずかに冬のオリンピックの唄なのかと感じられる。
 しかし、飛び去った影の後に残るまっ青な空は笠谷だけが見せたことではない。棒高跳のセルディ・ブブカもまっ青な空はよく似合う。
 オリンピックに夏も冬もない。共通項があるはずだ。そんなことをこの詩は教えてくれた。
 

                    (3)
 
 サッポロとは「乾いた広い地」という意味らしい。
 あれから四半世紀を超えたサッポロは潤いに満ちた地に変わった。
 「もうリトル東京などとは言わせない、ここは札幌です!」と自信に充ち満ちた顔で若者達は街を歩く。
 狭義な見方をするならば、そのような若者達は競技力を見事なまでに向上させた。少なくとも陸上競技などはお見事と言えるくらいの変貌をとげたのではないか。
 
 しかし、札幌で開催されたオリンピックは終わっていない。
 スキー滑降の会場地となった「恵庭岳」の自然破壊という環境問題が解決したわけではない。関係者は競技終了後直ちに、元に戻そうと努力を始めたのに、である。
 
 このままでは、オリンピックは“傲慢”という二文字を札幌の裏通りに掲げたままで、東京の表通りを闊歩しそうな雰囲気である。同じ国でありながら…。
 


    長野にて
 
 長野市を初めて訪れたのは1976年の夏、須藤宏氏(現JUVYマネジャー)佐野高校2年のインターハイ。2度目は2003年の秋、吉永一行君(現筑波大学院)群馬大学1年の22大学対校陸上。 
 
 2008年1月26日。長野市にいる。第63回国民体育大会冬季大会スケート競技の開催地である。隣には栃木県スケート連盟会長の星野仁さん。
 
 星野さんは昭和20年台後半から30年台前半、日光高校〜立教大学〜古河電工とスピードスケートで大活躍された。昭和33年には世界選手権に出場、昭和35年の日本選手権10,000mでは日本記録を樹立している。
 指導歴は1972年札幌オリンピックのコーチをはじめ,1976年インスブルック・1980年レークプラシッド、1984年サラエボと三大会連続のスピードスケート日本選手団監督である。
 さらに付け加えれば、星野さんの父仁十郎氏はアイスホッケーの選手であり、元日光市長でもある。1964年のインスブルックオリンピックでは現職の市長でありながらアイスホッケーチームの監督もつとめられているが、この時は仁さんもスピードスケートのコーチであった。

 
 私は多少のアルコールを入れながら話している。星野さんは下戸であるが、口はなめらかである。とにかく熱い。
 
 「オリンピックの開会式はファッションショーでしたよ。欧米選手団はおしゃれなデザインの毛皮です。とてもスポーツ選手が支給されるようなものではありませんし、スポーツの会場で着るにはもったいないようなものです。うらやましかったですね。日本選手団はヤッケでした。
 彼らは国家代表のプロ、我々は企業に雇われているプロでした。同じプロでも差は大きかったですね。当時は企業名をユニフォームにつけられませんでしたから。とにかく今とは天地の差を感じます。」と星野さん。
 
 星野さんとは数日前の結団式でお会いしたのが初めてである。式終了後控室で受けた情熱に感動したが、再びの感動である。実績に裏打ちされたスポーツに対する情熱がグローバルな感覚と相まって、凛とした冬の朝のまぶしいがそのうちポカポカしてくる太陽のような方である。
 
 過去の栄光ばかり話す。
 現実ではできそうもないことばかり話す。
 どこかで読んだか聞いたか、あきらかに受け売りとわかるようなことばかり話す。
 無茶苦茶な内容で話す。
 無責任な態度で話す。
 傍若無人な態度で話す。
 それだけでなく、人の話を聞こうとしない。

 
 自分の立場と相手の立場をわかった上で、自分の言いたいことの何を相手は聞きたいのか、ということを敏感に察知し、フランクな態度で話しを進めなければ会話は進まない。
 そんな会話が進めば酒もすこぶるおいしい。
 オリンピックについて、国体の在り方について、星野さんとの話しはつきない。
 
 「やりたいことをやらなければ死ぬとき悔いを残しますよ。おそらくね。」
 雲上の大先輩から強烈なエネルギーをいただいた。エネルギーを若者からもらうことが多くなった近頃、このような感覚を得られたことは、私の今後の生き方にとって大きな財産になるであろう。
 


   スピードスケート競技
 
                    (1)
 
 ご存じのとおり、長野市は10年前にオリンピックを開催している。
 長野でオリンピックが開催されている時に山形県短距離チームの合宿が静岡で行われた。私は会場地の静岡に向かう途中の東京駅で“清水宏保スピードスケート500m優勝”を知った。

 2008年1月27日、午前10時。私はエムウェーブの観客席にいる。長野オリンピックスピードスケート会場である。
 
 やがて競技が始まる。
 オリンピックや世界選手権などの大きな大会をテレビでしか見ていない私には正直驚きの連続であった。今までテレビで見てきたレースはダブルトラック方式と言われるが、国体で行われる方式はシングルトラックである。なおかつ、500m以外は責任先頭制という規則も加わる。
 500m決勝は何と8人が横一斉にスタートした。エッジがあたる、転倒する。激しい。
 
 私はエムウェーブ内を歩き回り、観戦場所を何度も変えた。
 スタート地点の後方、スタートラインの真横、フィニュッシュ地点、コーナーの出口と入口、ホームストレート、バックストレート、最後は監督席に降りリンクとの境界となるセーフティフェンスに手を置いていた。
  
 上半身を起こせば風圧でスピードが落ちる。これ利用し後方に下がる。駆け引きである。
  
 陸上競技のスプリントは短い時間で支持足に乗る接地の技術。片足で瞬時に受け止める。
 スケートは長い時間氷をとらえながらエッジに乗るという技術。片足で長く滑れる。
  
 コーナーは内側の脚(左)を前に持ってくるときに休み(リカバリーを意識的に遅くし)右脚との時間的バランスを取り、体内時計は直線を滑るときと同じ流れで進む。
 
 今やスピードスケート500mの世界は35秒程度では通用しない。
 高速リンクで有名なエムウェーブはまるでガラスである。
 
 「滑っていると選手のスピードで風が起こり、渦をまき、追い風になるのです。」
 と星野さん。

 いやはや何ともすさまじい。スピード、スピードスピード である。
 

                    (2)
 
 映画「札幌オリンピック」で映し出された鈴木恵一選手を見て、スピードスケートはレースというよりタイムトライアルに近い、ということを感じた。これは同じスプリント種目と呼ばれても、陸上競技とは集中の仕方がだいぶ違う、ということになる。
 速く滑った選手の記録と自分の力関係や、速いと思われる選手と自分の出した記録との関係など、選手は待たされる時間をどのような思いで過ごすのか。
 残念ながらシングルトラックルールの国体からはその内面を推察することはできなかった。むしろ、陸上競技そのままである。リレー競技を除けば…。
 
 その鈴木恵一選手は話す。
 「23年のスケート生活は短かったが、今日の500mは長かった。札幌で死んだ。札幌を土台にして生き返る。」41秒28、19位。
 競技者はいつ燃え尽き、いつ生き還るかである。
 真の競技者は競技者時代の栄光を鎧にしない。
 
 星野さんが別れ際に話された言葉は私の思想の底辺部で鈴木選手の言葉とリンクする。
 
 「指導者は時には選手のストレスがやわらぐよう悪口も言われなければなりません。面と向かって言うような選手は問題外ですが、試合が終わって負けた選手が『あんな作戦を立てたから俺は負けたんだ』程度の監督批判はしたほうがストレスはやわらぐでしょう?
 だから、親子鷹ではだめなんです。そんなことお互いに言えないでしょう。
 何よりも競技人生を終えてから独り立ちできないのです。人間関係がわからないまま社会に出てしまうのです。一般的には、親も子も鬼にはなれないでしょう。
 おわかりですよね。」



   アイスホッケー

                    (1)
 
 長野オリンピックを境にスピードスケートにおける可動式スラップスケートシューズは著しく競技成績に影響を与えた。
 アイスホッケーは何が変わったのか。それは防具であろう。映画を見るとよくわかる。
 
 アイスホッケーのおもしろさは聞いていたし、日光バックスや国体関東ブロック予選会などの試合を観戦し、多少なりおもしろさを味わっている。氷上の格闘技と言われることには全面肯定である。それゆえ、防具の工夫は安全性と機能性を備え著しく変わった。
 
 氷上の格闘技最大の魅力は選手とパックのスピードにある。リンクに出てくるまでは防具が邪魔になるのではないかと思えるほど、全身をガードしているように見える。
 しかし、氷の上に選手が乗るとそのような思いは杞憂に終わる。ものすごいスピードで動き回る。というより、氷上を走りまわる。チェックも想像以上である。
 それらを確認するのは会場で音を聞くのが最もよい。
 人と人とがぶつかり合う音、人が壁にあたる音、スティックやパックが壁にあたる音、走りまわる音、滑る音、エッジが氷を削る音など、否が応でも五感の多くに刺激が入る。
 アイスホッケーは音でも楽しめる数少ないスポーツだ。
 

                     (2)
 
 ホッケー会場で豚汁を飲んでいたら、私の名を呼ぶ声が聞こえる。振り返ると、JUVY日光合宿で毎年お世話になる國學院栃木高校出身のスプリンター星野さんである。ご子息が栃木代表の#11とのこと。連日日光から軽井沢に通っているらしい。それを知ったら応援しなければならない。注目して見た。親の愛はすごい。肌で感じる。
 
 明治大学OBのゴールキーパー山本選手と明大八幡山合宿所について話す。こちらの母校愛もすごい。肌で感じる。
 
 昨年3位の栃木だが今年は残念ながら6位。
 表彰式でずっと下を見たまま涙する大学3年の星野選手。
 私は、遠くで見つめる父に近寄り、
 「こんな態度の選手は倅だけだよ。強くなるよ。」
 「そうですか。ありがとうございます。」
 
 親子の素晴らしさ、伝統の素晴らしさ、そして、それらを包括できるスポーツの素晴らしさ。スポーツの底辺には四季の分け隔てはない。
 


   長野から軽井沢のはざま
 
 ここからは余談である。国体とは直接関係ない。
 
 長野市から軽井沢町に移動する途中、上田市の別所温泉に立ち寄った。長野市にある善光寺と上田市にある北向観音は両方参拝しないと御利益がないらしい。
 
 参拝を済ませ、ぶらぶらしていると、道標があり「常楽時」とある。時間的に余裕もあることから、何となく足をのばすことにした。
 
 途中、雪冠の山が見えた。「根子岳」である。大学時代のスキー実習を思い出した。
 2000m級の山にシールを着けたスキーを履いて登り、一気に滑降した。
 (あれほど楽しかったスキー経験はその後味わっていない。)などと考えながら歩いているうち常楽寺についた。本堂は茅葺き屋根であり、庭には素晴らしい松の木がある。
 
 常楽寺は北向観音を御守りする本坊であり、825年慈覚大師円仁が開創された別所三楽寺の一つである。当然、天台宗である。
 
 入口に着座していた気品ある美しい女性とどちらからともなく話しが始まる。
 【三千院の小堀光詮門主】【近江鉄道】【佐野の酒屋】【円仁と大慈寺】などなど。
 すべて佐野及び佐野近郊に関する話しである。
 
 一体何が、一体誰が、栃木からはるか離れた地で、このようなこと、すなわち一期一会を体験させてくれるのであろうか。
 
 寺を出た私の心はすっきりとしている。美しい女性と話しができたからではない。
 私の心質(このような言葉があるかどうかは知らないが)はすっかり入れ替わっている。
 
 常楽寺でいただいた手拭には、「和顔愛語」(北向山山主大僧正孝淳書)とあった。
 
 スピードスケートとアイスホッケーという陸上ではだし得ない「疾」のはざまで訪れた処で感じた「徐」について、その事実だけを書いてみた。他意はない。


 
   再び国体
 
 冬季国体はスケート(スピード競技、ショートトラック競技、フィギュア競技)、アイスホッケー競技の他にスキー(ジャイアントスラローム、クロスカントリー、スペシャルジャンプ、コンバインド、バイアスロン)がある。
 
 今回はスピードスケート競技とアイスホッケー競技の応援・観戦に終始したが、フィギュア競技にも注目していた。
 クラシックバレエ関係者は自らバレエを芸術と呼ぶ。
 フィギュア競技にもアーティストポイントがあり、両者とも近い訓練を行う。
 
 身体を動かす、ただそれだけのことながらそれらを芸術と称するとすれば、あらゆる「競技」も芸術ではないか。中村清曰く「マラソンは芸術です。」である。
 
 「芸術的な動き」「芸術的な走り」「芸術的な滑り」などの言葉から“的(てき)”をはずす事もスポーツ界にとっては大きな前進になるはずだ。スポーツ界以外の方との議論で“的(まと)”をはずさないためにも。
 


 2月19日からは冬季国体スキー競技が野沢温泉で始まる。
 再びスピードである。
 その中でスポーツ芸術論を説明できる場面に出会うことができるか?
 今度はまぎれもなく“ 虹と雪 ”の中である。

       
Vol.1 JUVY 創 設
Vol.2 理想の指導者とは
Vol.3 素晴らしき指導者
Vol.4 回顧・2005年
Vol.5 新春は箱根と共に
Vol.6 凛として颯爽と
Vol.7 眼のつけどころ
Vol.8 視点・感点
Vol.9 思い出に残る一言
Vol.10 新たなる旅立
Vol.11 JUVY誕生
Vol.12 春のスポーツシーズン到来
Vol.13 指導者としての実践力とは
Vol.14 ジュニアとシニア・その1
Vol.15 ジュニアとシニア・その2
Vol.16 わたしなりに言いたいことを…
Vol.17 「眼に見えない力」
Vol.18 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」
Vol.19 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」
Vol.20 「トーナメント・有限と無限の交差点」
Vol.21 「定石とひらめき」
Vol.22「合同練習会」
Vol.23「国民体育大会」
Vol.24「心・技・体」
Vol.25「再興」
Vol.26「神在り月」
Vol.27「修行」
Vol.28「言霊」
Vol.29「夢」
Vol.30「影響力」
Vol.31「健康」
Vol.32「我家の凜氣」
Vol.33「食」
Vol.34「インカレ」
Vol.35「2007年 JUVY TC前期総括」
Vol.36「今日まで、そして明日から」
Vol.37「国体関ブロ観戦記」
Vol.38「想いを文字で伝えるということ」
Vol.39「人間の運命について」
Vol.40「思いつくまま継走の如く」
Vol.41「広き世界」
Vol.42「スピード・スピード・スピード」

Circle-JUVY General Manager OKUZAWA Yasuo