Vol.36(2007. 8. 8.)
【葉月の八】
 「今日まで、そして明日から」
 
                  (1)
 
 南部忠平記念大会が開催されるので、札幌に出向いた。
 南部記念大会は、1904年に札幌で生まれ、北海中学から早稲田大学で学ばれ、1932年のロスアンゼルスオリンピック三段跳で15m72の世界記録を樹立し金メダルを獲得した故・南部忠平氏の功績を称えた記念大会である。南部氏は本来走幅跳の選手であり、1929年には当時の世界記録である7m98を跳んでいる。
 
 JUVYの特別会員でエリートアスリートの品田直宏も札幌の出身である。彼は札幌国際情報高校時代に7m87を跳躍しており、この記録が現在の北海道記録である。
 彼がこの記録を樹立した時が67年ぶりの北海道記録だったようであるが、私はてっきり南部氏の記録を破ったものと思っていた。しかし、これが何と故・田島直人氏の記録であったことに、陸上競技史には多少の自信があった私も正直驚いた。田島氏は京都帝国大学卒業後北海道に渡り、三井砂川炭鉱に所属し陸上競技の現役生活をしていたのである。ちなみに、田島氏も1936年のベルリンオリンピック三段跳で16m00の世界記録を樹立し金メダルを獲得している。
 日本の三段跳は1928年のアムステルダムでも故・織田幹雄氏が優勝しており、オリンピックで三連覇をしているわけである。
 もちろん、織田記念大会は春に広島で、田島記念大会は秋に山口で毎年開催されている。
 
 上記三名の大先輩の記録と比すと、近年の跳躍のレベルは極めて低いと言わざるを得ない。シンダーや黒土の時代によくぞこれだけ跳んだと、今更ながら驚嘆する。
 高速トラックとなった現在の競技者と大先輩との比較をテーマに研究している方もいるのであろうが、研究が現場に生かされているかどうか私にはわからない。
 私は研究者ではない。それ故、自由に仮説をたてても誰からもとがめられない。仮説は間違えたら底なし沼に陥る可能性もあるが、私の仮説は必ずや品田や矢代に貢献できると思う。仮説の中心は、スプリント能力の向上になるであろう。
 
 ところで、佐野市からは、故・佐藤信一氏が1924年パリ(役員)、故・小野操氏が1932年ロス(走高跳)、奥澤善二氏が1964年東京(3,000mSC)、栗原浩司氏が1988年ソウル(100m・4×100mR)大会にそれぞれ出場しているが、四名の方々を記念する大会は開催されていない。
 佐野には、日本記録を樹立しながら第二次世界大戦で戦死された、大澤龍雄氏を追悼した大会として始まった大澤駅伝なる大会があり、まもなく60回になろうとしている。大澤駅伝がどのような意味を持つ大会かわからない方も多いと思う。もちろん大会プログラムを見れば開催趣旨は記載されているが、この大会の名称を大澤龍雄記念駅伝競走大会と変更することはできないものであろうか。
 JUVYでも、オリンピックのメダリストが出たら○○記念大会をぜひとも開催したいものである。
 
 閑話休題。南部記念である。
 
 JUVYからは、100mに品田、斉藤仁志、三段跳に矢代雄紀の三名が出場した。
  特に、100mは世界選手権のリレー要員として選ばれる可能性があるため、末続君を除く日本の一流スプリンターがエントリーされているとの情報を受けていた。
 

                  (2)
 
 札幌には、途中八戸において私用を済まさなければならないことから、電車で行くことにした。
 家を7月14日10時に出発し、札幌駅に着くのは15日の朝6時07分である。八戸で途中下車するにはするが、実に20時間の長旅である。
 車中、北海道陸協のホームページからプリントアウトしてきた南部記念の日程はもちろん申込者一覧も穴があくくらい見つめた。八戸で途中下車し、市内をぶらりと歩いた後に、知人と会い酒を飲み、話しをした。八戸滞在は5時間あったが、頭の片隅からは南部記念、−特に100m−が離れることはなかった。
 
 青森から寝台急行「はまなす」に乗車した。
 初めて乗ったときから夜行寝台での旅は嫌いではない。むしろ飛行機に比べれば格段に好きである。車中熟睡できたことはないにもかかわらず、である。アメリカ遠征の時は飛行機以外の手段は考えられなかったことからあきらめたが、どうも飛行機はリラックスできない。本を読んでも字を追うだけ、物事を考えてもまとまらない。その点、寝台車は地に足がついているからか、結構リラックスできる。飛行機で一気に移動することよりも、移動している実感があることも寝台車が好きな理由である。(ただし夜行バスはだめである。足腰が伸びない。身体的な苦痛ばかりが印象として残る。)
 初めての寝台車での旅は昭和47年の鹿児島国体であった。当時日大2年の新井君(現JUVY短距離コーチ)と一緒に体験した。ある本で読んだ食堂車のハムサラダはいける、ということを信じ、乗車するとすぐに食堂車に直行、それをつまみに車窓を眺めながら2人でビールを飲んだ。楽しい旅であった。大会結果は2人とも散々だったが…。
 
 寝台急行“はまなす”は揺れが気にならず結構休めた。しかし、休めたのであって、眠れたというわけではない。
 
 今回の旅は何とも重苦しい空気が私の周りを漂っていた。あまりに重い空気は、四十年以上もスプリントを追求してきた田舎者を苦しめるに十分であった。
 空気を重くしているものは、「大阪世界選手権に日本のスプリント界は現時点で最高のメンバーを編成できるのだろうか?」という疑問であった。
 そのような空気が私の周りを支配し、身体は休めても頭は休めず、寝返りと枕元の携帯電話で時刻の確認を繰り返すだけであった。
 
 日本選手権が終了した翌7月2日の夕刻、世界選手権の代表が発表されたが、神山君(栃木)が入っていた。私は塚原君(長野)が200mをやめ、その代わりに神山君が200mの代表になったのだ、と信じて疑わなかった。
 しかし、翌日の新聞で神山君はリレー要員での選考であることを知ったのである。そしてその時から、(何故?)の思いが重い空気に変わり、私の周りを漂い始めたのである。
 
 情報によると今年の南部記念には、神山君と日本選手権100m3位の上野君(石川)は登録されていない。神山君は南部記念の100mに参加するための標準記録を破っていないので仕方ないとしても、上野君は申し込みをしていなかったのであろうか。
 
 神山君は南部記念の100mの標準記録(10”45)を破っていなくとも、世界選手権のリレー要員ならば、日本陸連強化委員会は推薦で出場させ、100mでも強いということを証明すべきではなかったのか。同様に、標準記録を破っている上野君を出場させ、本当に強いかどうかを確認すべきではなかったのか。
 
 南部記念の結果を見て世界選手権代表に追加する選手もある、との発言は短距離、特にリレー要員に関してはどのような含みを持っていたのだろうか。
 
 日本選手権100m3位の上野君は標準記録を破っていながら(ただし、日本選手権当日は破っていない。)世界選手権代表に何故選ばれなかったのだろうか。
 日本選手権100m3位の小島君(兵庫)は標準記録を破っていないから選ばれなかったのであろうか。彼の豊富な経験はどこにいってしまったのだろうか。
 グランプリのスプリント競技は24名までと大会要領には記載されている。そのことを厳守するあまり、参加者を増やすことは無理だったのであろうか。
 
 しかし、このまま行くと標準記録を破っており、なおかつ日本選手権同着3位の上野君にとって世界選手権代表はノーチャンスということになる。
 仮に、申し込みが遅れたことが唯一の理由であるならば、あまりにも非情である。

 私の結論は、
 (1)南部記念終了後にリレーメンバーを決めても遅くはなかったのではないか。
 (2)可能性が残された選手に関して選考条件を明確に発表したうえで、走らせても良かったのではないか。
 (3)選考方法に一貫性がないのではないか。
 (4)選考方法に情報の共有化がないのではないか。
 ということであった。
 
 「日本の陸上関係者が一致団結しなければ勝てない。」との強化委員長の発言があった。その発言は当然のことであり、その考えに異論はない。
 しかし、暗闇の部分がありはしないか。
 民主主義国家、だからこそ…、の思いが私の頭の中を堂々巡りしていた。
 
 
長距離種目に関しては、7月2日の大阪での発表時に残された選手の選考条件を明言しているのに、リレーに関しては私レベルまでには一切情報が伝わらないまま南部記念を迎えることになった。
 

                  (3)
 
 「まもなく札幌に到着です。お乗り換えのご案内・・・」
 そうだ、6時12分発の小樽方面行きに乗らないと品田家に行くのに30分以上遅れることになる。
 案の定、睡眠不足で思考が整理できない頭を無理矢理起こし、とりあえず散乱したままの衣服を身につけた。
 (荷物を送っておいてよかった。とにかく急がなければ。)と思っていたら、品田氏から「琴似の駅で待つ」との電話があった。おかげで、何をしなければならないかという、行動思考がしっかりできてきた。
 在来線に乗り換え琴似駅に着く頃には、重い空気は昨日までとはうってかわった青空と、夏の札幌の爽やかな風に重い空気は(一時的かもしれないが)押し去られ、今日一日の流れをどうするかという思考回路に変わってきた。
 
 数日前、矢代から電話があった。
 「インカレの疲れが抜けないような気がする。」
 三段跳だけで戦ってきた矢代でさえ、疲労感を訴えている。況や二人は…。
 せっかく二人とも世界選手権代表のチャンスをもらっていながら、何となくの危うさを感じた。特に、斎藤はケガが癒えたばかりの体調に加え水泳実習の直後である。
 今回は“無欲で戦い無傷で帰る”ことに徹するべき!私の結論はそこに行き着いた。
 
 渋江選手は、10,000mでA標準を破れば世界選手権の代表に追加する、と言われながら、
 「A標準を突破しても世界選手権には出場せず、来年の北京オリンピックを目指す。」
との意思を発表した。
 
 私も今大会終了後、
 「ユニバーシアードが終わったら、来年のオリンピック代表への準備を始めよう!」
と品田、斎藤を説得するつもりであった。もちろん同じ流れに矢代も入れたいと思った。
 「少し休もう。休んで鋭気を養い、来年は堂々と代表になれる力をつけるための練習を始めよう。そのための体験は今年十分に積んだ。インカレに重きを置かざるを得ない学生が、どうすればハンディなく戦えるかは、感覚的にわかった。」
そう話すつもりであった。
 
 7月6日に青戸氏が宇都宮を訪れた際話していたことを思い出す。
 「ユニバーで自信を掴み、そこをきっかけにオリンピックを本気で狙う心を作ることが大切です。その方が大学生の流れとしては自然で、無理がないと思います。私自身そうでしたから…。」
 

                  (4)
 
 円山に来たのは何年ぶりであろうか。
 ソウル(1988)、バルセロナ(1992)両オリンピックや世界Jr.選手権の日本代表合宿、1980年の栃の葉国体に備えての夏合宿、そして最後の国体監督となった1989年のはまなす国体などが次々と脳裏に浮かんだ。いずれも、会場は厚別競技場であったが、宿舎は円山競技場周辺であった。
 
 競技場の周辺を散歩し競技場正面玄関に来ると、待ち合わせをしたわけではなかったが斎藤が受付をしているところであった。
 ディリープログラムの男子100mの組み合わせを見て、あっと驚いた。
 1組は小島君、上野君、斎藤である。3組に朝原君(兵庫)、高平君(北海度)、品田である。塚原君(長野)はどこにもいない。思わず、いるはずのない神山君を捜している自分に気づき苦笑した。
 
 列車の中で考えてきたことが目の前で起ころうとしている。
 日本選手権100m3位ながら標準記録を突破していない小島君と同着3位で標準記録を突破している上野君、200m5位で標準記録を突破している斎藤が同組、すでに代表に決まっている朝原君と高平君が同組、なのである。
 高校野球の対戦相手では“因縁の相手”ということがよくある。
 偶然にしては素晴らしい脚本が用意されたのである。
 
 品田、斎藤、矢代がそれぞれ自分のペースでアップを始めるが、誰からも闘争心を感じない。体内のエネルギーを一気に、しかも全て使って競技する短距離・跳躍は今棲んでいる世界から別の領域の世界に向かっていくような気概がなければ最高の力は出せない。
 (今日は仕方ないか。)色気がまだ残る自分に再度言い聞かせる。「無事是名馬」なり、と…。
 
 100m予選1組。強い追い風が吹いている中、号砲が鳴る。
 「フライングだ!」
 スタンドで一緒に見ていた品田夫人が同時に声を出す。
 しかし不正出発であることを知らせる2回目のピストルは鳴らない。
 異常なほど斎藤が遅れている。
 決勝進出のための最低の条件である4着には入れそうもない。
 体内の酸素を余してフィニュシュするような走りをしている。
 結果は5着、10”30であった。ここで世界選手権代表の可能性は消えた。
 小島、上野の両君は通過。彼らにはまだ可能性は残されている。
 続いて2組は2着が10”49と、予想はしていたもののしらけたレースとなる。
 3組では品田が高平君に競り負け3着の10”38でこちらも可能性はなくなった。
 
 予選終了後の斎藤の話。
 「小島さんも上野さんも、『自分がフライングしたが止められなかったのでそのまま走った』と言っていました。実は自分も動いていたので、フライングを取ってくれると思い、躊躇して走り始めたのです。」
 世界選手権残り何枚か(おそらく1枚、結果によってはゼロもありえる)の切符を決める大会で何ともお粗末な…。
 (空気が読めないとはこういうことか)、と怒りすらも浮かんでこなかった。
 
 フィールドでは矢代も苦戦していた。
 斎藤も心配そうに、
 「矢代はどうですか?」と、聞いてくる。
 「調子は良くない。今日は無事是名馬だ。」と、私。
 
 決勝前なのに2人で今後の長期計画を話し始めた。
 しばらくして、試合が終わった矢代も加わり、スタンドの片隅でJUVY 関係者の話し合いが行われていた。
 
 世界選手権代表の話題は消えていた。
 希望の炎を燃やすための火興しが始まっていた。
 

                  (5)
 
 結局、世界選手権4×100mR要員は小島君一人が追加となった。
 日本陸上競技界を愛する一人として、順当な選考で全く異論はない。
 ただし、結果的に順当なのであり、過程的には順当とは今でも思ってはいない。
 小島君とは面識はないが、心の底から「おめでとう」と言いたい。
 そして、こちらも面識はないが、最後まで可能性を信じて走った上野君にも「ご苦労様」と言いたい。
 
 今回の選考も悲喜こもごもであった。
 日本選手権100mで同タイム3着の上野君、200mで100分の1秒差破れた斎藤、南部記念100mで100分の1秒差破れた大学の後輩新井君(埼玉)、そして、日本選手権200m決勝で不利なインレーンながら最後まで可能性を信じて走り6着となった藤光君(埼玉)。
 
 タラレバは通用しない世界。これが実力か、運も実力か。
 これからの3人を密かに注目していきたい。
 そんな競技の見方があってもよい。
 

                  (6)
 
 7月26日、アジア選手権の結果速報が入る。
 100m準決勝で上野君10”16(+4.2m)で一着通過。
 決勝は伊藤浩司のアジア記録を破り、アジア初の9秒台の9”99で走ったカタールのフランシスに次いで2着。記録は10”26。
 7月28日、アジア選手権続報。
 200mで、藤光君が追風0.8mの中20”85で優勝。
 
 いよいよ、東京発北京行のチケット販売が前倒しで発売開始である。
 人が操作してはならない神の領域はどの世界にもあるはずだ。
 その領域に近づこうと努力する若者達が純粋な力を出し始めた。
 
 さあ、流れ始めた。新しい源流が顔を見せ、ピュアな水が流れ始めた。そんな気がする。
 この稿が出る8月8日、品田、斎藤、海老原はバンコクに向かって、成田を飛び立つ。
 果たして新しい源流の一滴となって帰れるか。
 そんな、仲間の見方があってもよい。
 

                  (7)
 
 大学時代、練習で疲れた身体を慰めるため、毎晩ギターを弾いていた。
 陽水や拓郎の作品をコピーして弾き語りをすることが日課であった。
 アジア選手権関係のすべての結果を知った7月28日、突然ある歌詞が浮かんだ。
 
  わたしは今日まで生きてみました
  時にはだれかの力をかりて
  時にはだれかにしがみついて
  わたしは今日まで生きてみました
  そして今わたしは思っています
  明日からもこうして生きてゆくだろうと
  わたしには私の生き方がある
  それはおそらく自分というものを
  知るところから始まるものでしょう
  けれどそれにしたって
  どこでどう変わってしまうか
  そうですわからないまま生きてゆく
  明日からのそんなわたしです。           
                                       (1971・吉田拓郎)
 


 また、明日からも同じ生き方をしてしまうだろうな。今更変えられないし…。
 

                  (8)
 
 葉月は「葉落ち月」が由来だそうです。
 
 今年の夏合宿は昨日終わりました。
 日光は高地とはいえ夏に入ったばかりという感じで、さすがにリーフをイメージすることはできませんでした。
 
 1990年9月上旬、佐野市運動公園陸上競技場が開場記念の100mに出場したブラジルのR.C.ダ・シルバ選手らと日光に出かけたことを思い出します。  
 その時、中禅寺湖畔では、“ななかまど”が色づき始めていました。
 標高の高い奥日光では葉が落ちはじめるのももうすぐでしょう。
 
 まもなく秋がやってきます。
 四季の移り変わりは“いつの間にか”なのでしょうが、実は“あっという間”でもあるのです。
 
 今年の“実り”を実感しなければならない時期がすぐそこまで来ているのです。
 人間の“実り”は目に見えるモノ、すなわち結果だけではありません。
 閑難辛苦に耐え、強い心が培われたと気付いた心も素晴らしい“実り”なのです。
 それぞれの“実り”を確認し、“実り”から得られた種を大切に、来年の準備を!
 Jr.もTopも来年8月が本番と見据えて…。
 

 次号は国体関東地区予選会観戦記です。


       
Vol.1 JUVY 創 設
Vol.2 理想の指導者とは
Vol.3 素晴らしき指導者
Vol.4 回顧・2005年
Vol.5 新春は箱根と共に
Vol.6 凛として颯爽と
Vol.7 眼のつけどころ
Vol.8 視点・感点
Vol.9 思い出に残る一言
Vol.10 新たなる旅立
Vol.11 JUVY誕生
Vol.12 春のスポーツシーズン到来
Vol.13 指導者としての実践力とは
Vol.14 ジュニアとシニア・その1
Vol.15 ジュニアとシニア・その2
Vol.16 わたしなりに言いたいことを…
Vol.17 「眼に見えない力」
Vol.18 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」
Vol.19 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」
Vol.20 「トーナメント・有限と無限の交差点」
Vol.21 「定石とひらめき」
Vol.22「合同練習会」
Vol.23「国民体育大会」
Vol.24「心・技・体」
Vol.25「再興」
Vol.26「神在り月」
Vol.27「修行」
Vol.28「言霊」
Vol.29「夢」
Vol.30「影響力」
Vol.31「健康」
Vol.32「我家の凜氣」
Vol.33「食」
Vol.34「インカレ」
Vol.35「2007年 JUVY TC前期総括」
Vol.36「今日まで、そして明日から」

Circle-JUVY General Manager OKUZAWA Yasuo