Vol.23(2006.10.8)
【神無月・寒露】 「国民体育大会」

 今年の国民体育大会「のじぎく国体」は9月30日から10月10日まで、「“ありがとう”心から兵庫から」をスローガンに神戸市を中心に開催されています。陸上競技は10月6日から10日まで、神戸市にある「ユニバー記念競技場」で開催されています。
 
前回の「JGMの四季の風」でも書かせていただきましたが、JUVYは県陸上競技選手団のおおよそ1/3にあたる選手が参加しています。チームとして個人として、今までやってきたことに自信を持って競技に臨んでください。我々がやってきたことは「心の育み」でした。他人には見えない己の心をコントロールし、爆発させ、身体で表し、「これが心で走る(跳ぶ・投げる)ことだ!」と叫んでもらいたいものです。

実は私も5日から9日までJUVYの支援コーチとして遠征しています。従って、この原稿は出発前に書いたものです。あしからずご承知おきください。
なお、競技結果速報は、活動日記でご覧ください。

 国民体育大会(以下「国体」)は、第2次世界大戦後混乱する我が国の国民に希望と勇気を与えるため、昭和21年に京阪神地方において第1回大会が開催されて以来、毎年各県持ち回りで開催されています。

 昭和63年の第43回京都国体は“新しい歴史に向かって走ろう”とういうスローガンで開催され、この国体から二巡目に入りました。

 現在の国体は、「広く国民の間にスポーツを普及し、国民の健康増進と体力の向上、地方スポーツの振興と地方文化の発展を目的とする。(日本体育協会)」日本国内最大のスポーツの祭典です。英語で記すと“National Sports Festival”となるようです。そうです、国体とは日本で最も参加者の多い「体育祭」なのです。

今回は国体に係わる思い出を書かせていただきます。

 私が国体を意識したのは昭和41年の第21回大分国体でした。
当時中学3年の私が帰宅のため佐野駅にいたところ(電車通学でした)、国体の青年100mに出場し、佐野に帰ってきたばかりのYさん(佐野スパルタ所属)と出会ったのです。Yさんは、準決勝で落ちたらしいのですが、話の中心は特別参加していたブラジルの選手のパワーの違いについての印象で、本当に熱く語ってくれました。(当時の私には、なぜブラジルの選手が国体に出るのだろう?という疑問で一杯でしたが…。)

やがて私の乗る電車の時刻が迫ってきました。そのことを伝えると、Yさんは大きなバッグの中から小さな紙袋を出し「これをやるよ」と、記念のピンバッジを私にプレゼントしてくれたのです。私は漠然とでありますが、(国体っていいなー、いつか出てみたいな…。)と思ったのです。(今でもそのピンバッチは私の部屋の桐の箱に保管されています。)
 
 佐野高校時代は国体には縁がありませんでした。1学年下に怪物・新井真智雄君(國學院栃木高校・現JUVY短距離コーチ)がいたからです。
それでも、一度だけチャンスがありました。

高3のインターハイで不完全燃焼に終わっていた私は、怪物の出場する100mを避け400mに賭け、その年長崎県で開催される国体の出場を目論んだわけです。

当時、中田さんという佐野に在住する陸上競技指導者(というより、人生の師)に強烈な影響を受けていた5人の高校生がいました。前述の新井君をはじめとした、佐野高校・佐野日大高校・國學院栃木高校の2年生3人と3年生2名でした。

「全員で長崎に行くぞ!」と誓いを立てていましたが、何と3年生の私とH君が国体予選で敗れ本大会に出場できなくなったのです。H君と私にとって、当時内山田洋とクールファイブが歌い大ヒットしていた“長崎は今日も雨だった”が(冗談ではなく)きつい響きに聞こえてきたのを忘れられません。

今年9月の国体最終予選で成瀬康智君は100mに挑戦しました。5月の県高校総体では110mHと三段跳で共に僚友稲葉君と米澤君の2位だった彼は、100mに焦点を絞り、全国大会の屈辱を1週間で切り替え、県高校総体6位から一気に駆け上がり優勝の栄誉に輝いたのです。

彼が勝ったとき、同じ境遇で国体予選を走った37年前の自分を思い出し、一人感動にむせびました。「(行けなかった)長崎から船に乗って(37年後)神戸に着いた〜」となったわけです。

ちなみに、長崎国体では栃木の100m選手が大活躍しました。高校2年の新井(前述)、小西(烏山女子高校)、青年の阿久津選手がそれぞれ2位入賞したのです。
 
そんな私でしたが、おかげさまで東京教育大学入学後の昭和45年(1970)から平成元年(1989)までの間、選手として8回、監督として12回の計20回国体に出場することができました。 


ところで、国体には愛称(テーマ)とスローガンがあるのをご存じですか。
最初にスローガンが使われたのは、前述の長崎国体で「明日をひらく創造国体」でした。

 そして、私が初めて出場した昭和45年の岩手国体で初めてテーマが示されましたが、「みんなの国体 のびゆく岩手」でした。同大会のスローガンは「誠実 明朗 躍進」でしたが、当時の世相を見事に反映しているようです。〔誠実価格と明朗会計で我が社は躍進〕などと言ったら怒られますかな。
 
昭和49年(1974年)の茨城国体は「水と緑のまごころ国体」というテーマでした。この大会では、県名も入れず、スローガンもありませんでしたが、なぜかさわやかな気分が教員生活1年目の私の心に満ち溢れたことを覚えています。

前年度(大学4年時)茨城県から「茨城の教員になり国体で活躍して欲しい」と勧誘されましたが、丁重にお断りしたうえで故郷栃木の教員になった私の社会人1年生の国体は、本当に気分良く走れました。特に、準決勝では走ろうと思わなくとも脚が勝手に前に進んでいった感覚で、フィニュッシュ後も全く疲れていませんでした。わたしにとって、生涯最高の200mレースと思っています。

 国体のスローガンには「強」「力」「逞」などの漢字が用いられることが多いのですが、「さわやかに すこやかに おおらかに」とした、昭和51年(1976)の佐賀国体はちょっと違う感じを受けました。残念ながら、私は国体予選で敗れ、本大会の参加が途絶えた大会でしたが、妻・幸子が走高跳で優勝することができました。当時はルールの範囲内で盛んに行われていたジプシー選手(※)というものが存在していました。幸子の優勝は、ジプシー選手以外では初となる、異なる都道府県から出場して優勝、というものでした。当時は女性が結婚後競技を続けることはほとんどと言ってよいくらい見られなかったのです。

 (※ジプシー選手…○○年A県から出場。翌年は規定により出場できないが、翌々年B県から出場するような選手を総称していた。なお、結婚も例外ではなかった。)

その後、「日本の屋根に手をつなぐ」のスローガンのもと監督として初めて参加したのが昭和53年(1978年)の長野国体(私26歳)でした。

また、監督として参加した最後の国体は、「君よ今 北の大地の風となれ」のスローガンで行われた「はまなす国体」は平成元年(1889年)北海道での開催でした。

両方のスローガンとも心にジーンと響きます。


今年の開催地は兵庫県です。冒頭に書いたとおり、今年の県選手団の約1/3がJUVY所属の選手です。このような結果が一過性に終わらないようするためにも、おごることなく精進してまいりたいと思います。

多くの方々からの御支援をはじめ、見えない力をいただきここまでくることができました。本当にありがとうございました。

今大会のスローガン「“ありがとう”心から 兵庫から」は震災からの復興を果たした神戸市民の気持ちが表れているようで、本気で兵庫県勢を応援したくなります。

同時に、私の気持ち、JUVYのメンバーの気持ちをあらわす言葉のような気がしてなりません。参加選手も同じ気持ちを心に置いて戦ってくれると思っています。

それでは別の観点から国体を見てみましょう。

【仲間】
昭和46年の「黒潮国体」は和歌山県紀三井寺競技場で開催されました。
私にとって、和歌山と言えば「まっちゃん」です。昭和50年、当時の筑波大学名陸上競技部監督・西藤宏司先生のお力添えで知り合いになることができた和歌山工業高校の松本一廣先生。私は先生から強い影響(エネルギー)を与えていただきました。

先生のお世話になり、和歌山で何度も合宿をさせていただいています。

昭和63年の「新しい歴史に向かって走ろう」のスローガンのもと、2巡目となる国体は京都で開催されました。京都と言えば洛南。洛南といえば中島道雄先生と柴田博之先生です。中島先生も西藤先生が引き合わせてくれました。

修学旅行であろうがプライベートな旅であろうが、京都に着いて連絡すれば、すぐに駆けつけて、車を貸してくれるは、食事を準備してくれるはで、何から何まで面倒をみてくださいます。

そして北海道の品田吉博、讃良岳宏先生。お二方にはどれだけお世話になったか書ききれません。おかげさまで、いまだに兄弟以上の付き合いをさせていただいています。

先般は讃良先生から「品田直宏君(品田吉博先生御長男・札幌国際情報高校卒業・現在筑波大学3年・2003年世界ユース選手権走幅跳、国体少年A100m優勝者)を指導できるのは奥澤先生しかいません。是非、北京への長期計画を立てて実践してください。その際、嫌われ役も買って出てください。」とのもったいない御電話をいただきました。

JUVYの県外合宿はまだまだ甘えさせていただいて、栃の葉国体のころと同じように、冬は和歌山、夏は札幌で開催したいものです。

【家族】
昭和47年の「太陽国体」が開催された鹿児島県鴨池競技場はこの夏も訪れることができました。この夏もというように、実は3月に訪れたばかりです。

太陽国体400mのレース中、200m付近でアキレス腱を痛めリタイアした苦い思い出の競技場であるにもかかわらず、今回も日課の朝の散歩で競技場に無断で立入り、懐かしんできました。

この競技場には妻・幸子が日本記録(走高跳)で優勝した記念のレリーフがあります。また、長男・将司の立教大学時代の野球部春季キャンプ地でもあります。

我家の共通の思い出の地です。

ところで、鹿児島は今でも島津や西郷のパワーを引き継いでいると感じるのは私だけでしょうか。行くたびに街全体が動き続けているような気がしてならないのですが…。

【とまり木】
昭和52年の青森県の「あすなろ国体」は現役最後の国体でした。当時高校3年生の須藤宏君(現・佐野高校監督)と師弟で一緒に出場しました。

そのような思い出の地で、平成15年に日本学校薬剤師会から学校における薬物乱用防止教育に功績を残した(?)ということで表彰していただきました。今後も、ドーピング問題も含め、表彰されたことを無駄にしてはならないと思っています。

もちろん、青森国体の主会場である陸上競技場まで行ってきましたが、強い思い出が浮かび上がってきませんでした。そこで、翌早朝、記憶を頼りに街の中を散歩しました。

ありました!素晴らしい思い出が。

青森は青函連絡船もなくなり、港周辺は大変貌していましたが、駅からちょっと入ったところは当時のままでした。当時、毎日のように成年選手が通い、将来の夢を語り合った居酒屋を発見したのです。当時と変わらずに存在していたことは感激でした。(記憶に残る店の看板は変わっていませんでしたのですぐに発見できました。)勿論入店。

【旅の途中】
京都に旅して時間が取れたら、ぜひ比叡山に登ってみてください。
延暦寺根本中堂から坂本側を気楽に歩いていると、琵琶湖が見える場所があります。その場所を目的に行くわけではないので、あくまでも気楽に歩いていただきたいのですが、何とそこから皇子山競技場が見えるのです。

栃の葉国体の翌年の昭和56年は「びわこ国体」として滋賀県で国体が開催されましたが、その主会場です。

琵琶湖に目がうばわれがちですが、はっきりと競技場が見えますので、一度ご確認ください。

比叡山を訪れ、幽玄な氣をいただいた直後に発見する「兵どもの夢の跡」を見るのも何とも言えない感性が味わえます。

【栃の葉の風爽やかに】
昭和55年(1980年)には第22回オリンピック大会がソビエト連邦のモスクワで開催されることになっていましたが、日本はソ連のアフガニスタン軍事介入に抗議し、アメリカなどと共にオリンピックをボイコットしたのです。

マラソンの瀬古選手をはじめ、競技者としてのピークを迎えた選手が不参加の決定に泣く泣く納得せざるを得なかった年です。

本県陸上競技関係者でも伊沢誠選手(短距離・現石橋高校教員)や澤武芳選手(走高跳・現宇都宮商高教員・JUVY跳躍コーチ)は大会参加標準記録を突破していました。

その年昭和55年10月に「のびる力 むすぶ心 ひらくあした」のスローガンのもと本県で「栃の葉国体」(秋季大会)が開催されました。

私が男子監督、櫻井剛彦先生が女子監督として全国の精鋭に立ち向かいました。当時、櫻井先生はインターハイフィールドの部総合2連覇を成し遂げていましたが、私はまだまだ毛の生えそろわぬ雛でした。今から考えれば、良く乗り越えられた、と冷や汗が出ます。

そのようなことで、責任感などからくる緊張はありませんでした。
若い頃の怖いもの知らずにやった、という経験は加齢とともに身中深い部分で醸成されているようです。今そのことを実感しています。

【再興】
栃の葉国体を迎えるあたり、私達の考えは「ものを残すな、人を残せ!」であったような記憶があります。ものとは施設、人とは指導者のことです。施設がどんなに立派でも、そこから選手は生まれません。しかし、指導者を継続的に輩出していけば、浮き沈みはあるにせよ末永く「陸上栃木」は続くものと考えたからです。

では、「人は残ったのか」と問われると、答えに迷います。

そのころの若い私が個人的に実践しようと誓ったことが2つありました。

一つは、競技者が最高のトレーニングができる環境を設定してやる、ということ、もう一つは、所属校を強化するということでした。

栃木陸上競技協会強化部から離れ17年となりました。隔世の感があります。

しかし、上記のことは現在も強化実践の示唆として通用しそうです。

そう考えると、より多く経験を積んでいる者どもが、今、あらためて「人を残す」ための方法を考えなければならないのではないでしょうか。

だからと言って、私のような者が第一線に戻るということではありません。やはり、若き実力者の養成のためにエネルギーを注ぎ、その存在に敬意を払うということなのです。


遠い世界に 旅にでようか   それとも赤い風船に乗って   雲の上を 歩いてみようか 

太陽の光で 虹を作った   お空の風を もらって帰って   暗い霧を 吹き飛ばしたい

僕らの住んでる この街にも   明るい太陽 顔を見せても  心の中はいつも悲しい

力を合わせて 生きることさえ   今ではみんな 忘れてしまった   だけど僕達 若者がいる

雲に隠れた 小さな星は   これが日本だ 私の国だ   若い力を からだで感じて

みんなで歩こう 長い道だが   一つの道を 力の限り   明日の世界を探しに行こう

(1969 西岡たかし



この詞は17年間の私の心境を如実に語ってくれています。
今こそ、栃の葉国体前後に比しても数段上のレベルの全人間力で進み続ける、栃木陸上競技協会強化コーチの結束を期待します。

いろいろと国体に関する思いを綴ってきました。
「どこの国体が最高でした?」

と聞かれたら、これからは毎年こう答えるようにしましょう。

「もちろんかかわってきた全部の国体が素晴らしい大会でした。しいて一つと言われれば、今年の国体が最高です!」と。

次回は【神無月・霜降】 テーマは「心・技・体」です。

Vol.1 JUVY 創 設
Vol.2 理想の指導者とは
Vol.3 素晴らしき指導者
Vol.4 回顧・2005年
Vol.5 新春は箱根と共に
Vol.6 凛として颯爽と
Vol.7 眼のつけどころ
Vol.8 視点・感点
Vol.9 思い出に残る一言
Vol.10 新たなる旅立
Vol.11 JUVY誕生
Vol.12 春のスポーツシーズン到来
Vol.13 指導者としての実践力とは
Vol.14 ジュニアとシニア・その1
Vol.15 ジュニアとシニア・その2
Vol.16 わたしなりに言いたいことを…
Vol.17 「眼に見えない力」
Vol.18 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」
Vol.19 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」
Vol.20 「トーナメント・有限と無限の交差点」
Vol.21 「定石とひらめき」
Vol.22「合同練習会」
Vol.23「国民体育大会」

Circle-JUVY General Manager OKUZAWA Yasuo

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