時々康駿    第22回(2013.6.12.)       


 一流中の一流を決定する日本選手権に3日間行ってきた。集中的に見たのは100m、選手とともに動いたのが200mというわけだが、多くの種目も観戦することができたが、今回は100m,200mについて書く。
 100mは予選のアップから集中して選手の動きを観た。一流競技者が集まっている中でも山縣の動きは秀でていた。「桐生は勝てないだろう」と直感した。それよりも「江里口は予選を通れるだろうか」と人ごとながら心配になった。2年前の山口国体のアップでも同じ感じを持ったが「しっかりと勝ち私の考えを打ち砕いてくれたので、今回も大丈夫なんだろう」と思い直したが、悪い方の予感が的中した。すべての結果は予想通りとなった。同じく2年前の沖縄インターハイで報道関係者から「将来性は誰があるか?」と尋ねられたときに間髪いれず「山縣」と断言したのを思い出した。
 それは軸をしっかり保った中で支持足側の強烈なヒップスイングと膝の使い方ににあった。もし、VTRを保存してある方は繰り返し見て欲しい。私のスプリントの見方が少しはわかってくれると思う。山縣が義塾に入学した時にそのことを義塾の先輩でJUVYのメンバー平井にくわしく話したくらいだ。
さらに超専門的パワーを付けることができればコンスタント9秒台の選手になるのも可能であろう。


 斎藤は予選のアップは順調であったが、競技場に入り背面身痙攣(背中〜ふくらはぎ〜ハム)が次々と襲い、フィニッシュ手前では痛みに耐えられず「いてー」と声を出しながら何とか完走する状況であった。医師の診断では「肉離れではない」とのことだったのだが、翌日の決勝は私の判断で棄権することにした。決勝は日本陸上史上最高のレースでA標準を5名が破った。飯塚の優勝は妥当なところであろうが、2着には小林が入った。前日予選終了後、私を訪ね「斉藤君の脚は大丈夫ですか」と心配してくれたのが小林の父であった。その目には情報収集などの俗なものは浮かんでいなかった。


 結果が良い時は祝福の電話やメールが対応できないくらい来るが、結果が悪いとあまり来ない。本当の応援者かどうかはこんなところでわかります。
 「正しい判断」「当然の判断」「苦しい決断は今後のため」などのメールを送っていただいた方々には本気で応援してくれているのだと感謝以外の何者も浮かびません。この場を借りてあらためてお礼を申し上げます。ありがとうございました。特に、久喜駅まで迎えに来ただけではなく食事をしながら話を聞き、涙した松永さんの「人を思う行動力」には驚愕しました。
 その中から二人の方のメールを紹介します。
 日本選手権、人間の勝負のほんの一部を共有させていただいたことに感謝申し上げます。(中略)勝者イコール人生の勝利者ではないと考えております。人は人から学び、人から助けられると実感しています。ありがとうございました。(SCさま)
 指導者は選手の最高の状態をイメージし、リアルタイムで選手に伝える。結果は宇宙神に任せる。自分で解決しようとはしないで、神につなげるまでが自分の仕事とと思う。全てお任せする心境になること、その状態こそ宇宙神と内在神がリンクする時である。(HWさまの内容を要約させていただきました)


 陸上競技を初めて50年目、指導者になって40年目に入った。
 五木寛之の言う、人生の黄金期に入りつつあるようだ。昔なら、負けてやけ酒なんていうのはしょっちゅうだった。まずはそのことが違う。
 本格的な陸上競技は大学に入学してからだった。大学1年の10月に岩手県で国体が開催された。今から43年前のことである。この岩手国体が私の国体初出場の大会であった。


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 宿舎は今と違って民泊である。(翌1971年の和歌山国体も民泊であった)近年、岩手にはちょくちょくお邪魔するが北上ばかりで盛岡には43年ぶりに滞在することになったのが5月に行われた岩手県高校総体の時。「そうだ民泊させていただいたH家に行こう」と思ったのが盛岡に行く前日であった。昔の日誌を見ると、H家の住所はもちろんご馳走になったものまでが書いてある。(ちなみに試合終了後は寿司が二日、焼肉一日、わんこそば一日と散財をかけている)



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 そのようなわけで、試合が終わってからH家を探し始めた。同行してくれるのは現職警察官のW氏。早速当時の住所をナビにいれ出発。しかし、住所が変わっている。近くまでは行ったのだが全くわからない。道行く人に訪ねても「さー、わかりません」の連続。私はあきらめ「もういいですよWさん」と弱音を吐いたが「ここまで来たんだから探しましょう」と説得された。どちらが探し人かわからない。「こういう時は年配に限る」とW氏は我々よりはるか先輩の方々数名に狙いを定め、遂に発見。実は数年前に引っ越していたそうで、よく発見できたな、というのが私の実感。探し始めて1時間が経っていた。
 しかし玄関のチャイムを押せども押せども住人は出てこない。「鍵かかってないわ」とW氏ドアを開け「こんにちは」数回連呼。(と言っても優しい言葉掛け)現職警察官の偉大なる力に脱帽。すると二階から女性二人が降りてきました。H家のお嫁さんと90歳になったというおばあさん。お嫁さんは「当時は新婚で別に住んでいたが覚えている」おばあさんは「二人来ていたのは覚えているが…」「そりゃ、私の名前まで覚えていたら化けもんですわ」などと笑顔で雑談。互いに記憶がしっかりしないのは当然である。43年間という時間の流れを数分間で話し合う。そして私たちは宿舎に戻ることに。別れしな「先程はなぜすぐに出てこられなかったのでしょうか?」と言うと、「押し売りが来たかと思って、じっと息を潜め帰るのを待っていました」と大笑い。


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「そんな怖い顔をしているのはどっちなんだ」と宿舎までの車中は二人で大変な盛り上りであった。
「普通の人はこういうことはしませんね。こういうことをするから奧澤先生なんです。」と言ってくれたW氏のお土産は氏が編集した”岩手国体当時のヒット曲集”CD10枚でした。何という気の効かせ方。これぞ人間性の豊かさを持つ最たる人、と恐れ入りました。


※写真掲載
1.岩手国体サブトラックでの私
2.大学から出場した参加者の集合写真(左から二人目が私、三人目が品田:直宏くんの父)
3.同じ場所で写した今年の私
4.当時走った3レーンに立つ今年の私
5.お会いしたH家の方々と


 かけっこに夢中になりながら、一流気取りで(二流以下なのに)ちょっと生意気になりはじめていた岩手国体。ここが私の原点のような気がする。同宿したAさんは2位、私は予選落選。それでもH家の人々は分け隔てなく大切に接してくれた。Aさんが成人者の祝賀会に行ったとき(その頃19歳の私は不思議なことに飲酒はしていなかったのです)一人残った私を外食に連れて行ってくれたことでもわかる。
負けた人間にいかに自然に接することができるか。しかも素敵な言霊を添えて。そんなことができるのは人生の黄金期を迎えてからなのだろう。
 はたして生存中、大宇宙の大神様に全て解放できる人間になれるだろうか。







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