Vol.20(2006.8.23)
【葉月・処暑】 「トーナメント・有限と無限の交差点」
―上(かみ)から声をかけられた競技者たち―
国体予選、そして関東選手権が終わりました。高校生は、いつ休み、いつ充電練習をやったら秋のシーズンでよい結果を残せるのでしょう。無茶苦茶なスケジュールと言わざるを得ません。自分で試合を選択できるレベルの選手はともかく、目一杯でやらなければならない選手は秋のシーズンどころではないはずです。ここまで一生懸命にやってきた選手や指導者もお疲れの様子がありありと見られます。国体予選は酷体よーせん、関東選手権は観光選手権になっても致し方ないようです。


 昭和57年10月、島根国体、少年A100mで当時佐野高校3年生のK選手は予選を楽々1着、全参加選手中トップのタイムで通過しました。とは言っても、8月のインターハイでは準決勝で落選していたので、不安はぬぐい去れなかったようでした。案の定、準決勝は全く良いところなく、3着。 しかし、プラスで拾われました。決勝出場者中7番目の記録です。

 決勝前、私は、自信をなくしていた彼に活を入れさせてもらいました。その後、招集所に向かいながら彼に言った言葉を今でも良く覚えています。「今から、誰とも話すな。話しかけられても頷くだけにしろ。できれば他の者と離れたところに待機せよ。大丈夫だ。神がおまえを走らせる!」でした。

結果は圧勝。高校時代日本選手権2位になった現JUVYの新井真智雄コーチでさえなしえることのできなかった、栃木県の高校生が国体の100mで初めて頂点に立った日でした。
 

 昭和59年8月、秋田インターハイ。4×100mリレー予選は脚の不調を訴えるエースK選手をはずして臨みました。第1組でした。ここで私はトーナメントの怖さを心底味わうことになります。予選は苦しまずに2着以内で通過するはずのチームが、3着でフィニュッシュしたのです。その瞬間から、予選最終の9組の結果を聞くまでの45分間、針のムシロというものがあるのならこのような事を言うのだろう、と本当に辛くて長い時間を過ごしました。結果はプラス6の6番目、7番目と百分の1秒差、準決勝出場チーム中最下位の記録で通過したのです。

 こうなると開き直るしかありません。準決勝ではK選手を2走、アンカーに1年生のA選手を使ったのです。結果的には準決勝を通過し、決勝では4位になりました。


 秋田インターハイ4×100mリレーアンカーのA選手はインターハイ終了後の国体予選で110mJHに挑戦し、僅差で勝利をおさめ代表に選ばれました。
 2ヶ月後の奈良国体。強い追風の吹く中、私たちは1台目までを7歩で行くことを決断しました。1台目までは良かったのですが、走力のあるA選手のインターバルは詰まりに詰まり、ハードリングは浮きに浮き、2着まで通過のところ3着でフィニュッシュしたのです。決勝出場者中8番目の記録でしたが、初めての14秒台。私の願いは「決勝の15秒間、風よ止まってくれ!」ただそれだけでした。

 そして、決勝。風が弱まったのです。結果は、ハードル競技2試合目にして、大会新記録で優勝することができました。


 予選や準決勝をプラスで通り、決勝で勝つことは珍しいことではありません。その多くに何らかの原因があるからです。上記3例では、不安、油断、環境条件などがあげられます。これらが次のラウンドで解除され、持てる力を発揮し、その結果想定内とも想定外ともとれる結果が残せたのでしょう。
 しかし、もし落選していたなら次のラウンドで持てる力を発揮することは出来なかったわけで、上(かみ)がチャンスを与えてくれたと思うしかありません。


今年の日本選手権の200mには筑波大学に進学したばかりの斎藤仁志選手が出場しました。私は勤務の都合でどうしても準決勝までは見られないことがわかっていましたので、試合中の彼とは携帯電話でのやりとりで状況を掴みアドバイスを与えることに終始せざるを得ませんでした。
予選は難無く通過。問題は準決勝でした。終了後、寂しそうな声が受話器の向こうから、

 「駄目でした。4着と同タイムの5着でした。」
 「着差有りと出たのか?」
 「出ました。今から筑波に帰ります。」

 私が初めて日本選手権の200mに出場した時が9位でした。(俺みたいなヘボ選手のまねを何でするのか)と考えていたら、再び私の携帯電話がなりました。

 「着差が千分の1秒だったので、千分の2秒差以上でなければ規則として着差をつけないそうです。だから同着となるため、競技場が9レーンあるので決勝は9人になったそうです。残りました。もう一本走れます。」

 「わかった。明日アップの開始時刻までに行く。もう一度言うが、斎藤より強いのは5人しかいないはずだ。しっかり食べて、ゆっくり休め。帰らないで良かったな。」

 翌日、インターハイに出場する選手の練習を佐野高校の体育館で7時から9時まで指導し、佐野駅に駆けつけました。神戸のユニバー記念競技場に向かったのです。

 決勝前のサブトラック。末續選手や高平選手のオリンピック、世界選手権代表組とウォーミングアップをする斎藤選手は初出場とは思えないほど落ち着きはらい、立派な若武者となっていました。

 決勝の招集所に向かう途中、2年前のJUVY合宿(当時はTeam SYOの合宿)で一緒に練習し、今回女子やり投げで優勝の栄誉に輝いた海老原選手より激励を受けました。

2人で歩きながら、私は自分の思いを話しました。

「ファイナリストは選ばれた人だけだ。8位と9位(今回は9位と10位)では順位は一つしか違わなくも、ものすごい差があるのだ。出る試合は必ず決勝に残るということがスプリントに磨きをかけるのだ。これで全国大会3連続残ったわけだから、日本一流のスプリンターに斎藤仁志という名前と顔は覚えてもらえるよ。決勝に残るのと、準決勝で終わるのとでは気分は全く違う。今日は内と外の選手を2人ずつ喰ってこい。」

そして、9番目の記録で決勝に進んだ斎藤選手は5位でフィニュッシュしたのです。


 平成18年8月6日、13時。インターハイ110mH。ファイナリストの夢を乗せ準決勝がスタートしました。その3台目。4レーンを走るJUVYの稲葉直紀選手は、ハードルの上に見事に尻が乗ってしまいました。完全にバランスを崩したかに見えましたが、5台目までに立て直し、追撃態勢に入ったのです。普通なら考えられません。レースの途中で加速するなどということは。しかし、何とか2着でフィニュッシュの思いもむなしく、3〜4着でフィニュッシュしました。

 その時彼は、(終わった)と思ったそうです。

 しかし、私は信じていました。必ずプラスで通過できると…。

 実は予選の結果を集計していたら、おもしろいことが見えていたのです。稲葉選手が走る組はラッキーな組になるであろうと思った私は、あらかじめ稲葉選手に、

「準決勝では1着から4着までが大接戦の組に入る。他の組は1着が抜けてしまうから、稲葉の走る組からプラスの選手が出る。」と話をしていたのです。

 ところが誤算が生じました。1組は予想通りだったのですが、2組で稲葉選手が何とも言えない複雑な位置でフィニュッシュした後、3組は2着が同着で2人になってしまったため、プラスで決勝に進出できる選手が本来2名であるはずなのに、1名になってしまったのです。

電光掲示板には3着INABA14”94、4着TANAKA14”94と出たのですが、同タイムにつき高体連規約で抽選をすると言うのです。

 ここで疑問を感じない人はいないでしょう。

まず、一緒に走って勝った選手となぜ抽選して1名にしなければならないか、ということ。次いで、9レーンあるのに、なぜ8人で決勝をするのか、ということです。

しかし規則は規則ということで抽選をすることになったのですが、どうもこの手の規則は選手優先になっていないように思えてしかたありません。

1983年の名古屋インターハイ100m準決勝は8番目の記録で走った選手が2人になりました。一人は佐野高校のH選手でした。この時は抽選をせずに、決勝は7人で走ったのです。この時も、今回も1レーン余っているのです。状況は違うにせよ、両大会とも1人の選手の可能性を摘んでいます。

さて、稲葉選手によると、抽選は1から8までの数字の刻まれた棒を本人が引き、数字の少ない方が決勝に進めることになるという方法がとられたとのことでした。

予備抽選では稲葉選手が「1」に対し田中選手は「2」。残された6本の棒から本抽選をしたところ、稲葉選手が先に「3」を引き、田中選手が「4」という、すごい闘い?だったようです。実際には稲葉選手が「3」を引いた時点で決してはいたのですが…。しかし、準決勝が終了してから、ここまでの間に使われた精神的エネルギーは大変な事だったと思います。

決勝では、準決勝3組それぞれの組の1着だった選手が1〜3位を占めました。準決勝の記録では8人中最も悪い稲葉選手でしたが、4位と健闘しました。

稲葉選手は予選2位、準決勝3位、決勝4位と数字が並びました。(ちなみに、田中選手は予選4位、準決勝4位、決勝に進み4位となると、これまた数字が並んだようです。)

実は2人の数字の並びは、インターハイ前からあったのです。あらためて参加選手のランキングを見てみると、2人は15”03で20位に並んでいたのです。試合前のランキングが同じ。準決勝の記録が同じ。抽選の際の番号が1・2/3・4と並んでいたのです。

実は日本選手権における斎藤選手の結果も、予選21”53・3着、準決勝21”34・4着、決勝21”15・5着とこれまた規則的に並んでいたのです。余談ながら。

斎藤選手と稲葉選手に共通することがあります。それは、
1)2人とも、準決勝ではイメージ通りのレースができなかったということ。
2)2人とも、準決勝で落ちたと思うほど大接戦だったということ。
3)2人とも、同着の相手との差はおよそ1cm程度だったということ。
4)2人とも、準決勝の記録は最下位で決勝に進んでいるということ。
5)2人とも、準決勝の結果から考えると、決勝では大健闘していること。

さて、今回の結論です。

彼らが、9番目のため決勝に残ることができなければ、彼らは当該の大会については永遠に日本で9番目の選手で終わります。しかし決勝に残った彼らは、現在持てる力を発揮し、評価を高めることに成功したのです。そのことは、ファイナリストと呼ばれる名誉に加え、準決勝で終わったのではわからなかった、人間の可能性は無限にあるという証明でもあったのです。

そうです、上(かみ)が彼らにささやいたのです。

「次のチャンスを与えるから、そこで自分の力を確かめてみなさい」と。

 そして、彼らはその条件下では世界で1人にしか与えられない、神秘な体験をしたのです。それは、真摯に競技に取り組んできた競技者だけに聞こえる上(かみ)の言葉だったのです。

 9番目の記録で決勝に残れない選手は、その時有限の世界が訪れます。どのような形でさえ、ファイナリストになれれば、その瞬間から決勝が終了する時点まで、無限の可能性が与えられます。

スプリント種目の準決勝は「有限と無限の交差点」です。

1969年。全国高校総体男子200m準決勝。百分の4秒差の9位で決勝に進めなかった選手が、1972年日本選手権男子200m準決勝、1973年日本インカレで同じく9位で落選しました。現役時代の私です。1972年の関東インカレや1974年の国体では決勝に残りながら7位という体験もしています。まさしく大きな壁があったのです。

有限を知りぬいている私にとって、教え子には無限の可能性を与えることが天命だと思っています。本物の指導者とは、選手に本物を体験させることができる人ではないでしょうか。どれほど神秘な体験をしてきた人でも、それを伝承できないなら(体験させられないこと)、優秀な指導者と言えません。平凡ながらも、多くの体験をしながら現役生活を送った私は、エリートとして現役時代を送り、その素晴らしい体験をもとに本物の味を伝承することが出来ずに指導している者に負けるわけにはいきません。


 県高校総体100m6位だった成瀬選手が国体予選100mで圧勝しました。彼は彼の内面で未知との遭遇をしたようです。神秘の体験もしたようです。こうしてまた一人、スポーツから感性を磨くこと出来る人が誕生しました。私も何とか神秘な体験をしてもらいたく、この日成瀬選手にお付き合いしました。心の底から嬉しく思います。

残念なことに、そのような体験や成果を認めない指導者や競技者がいることも確かです。櫻井先生のように「こだわり」を捨て、競技者優先主義を徹底したいものです。

 JUVY会員はもとより友好会員(監督がJUVYの会員)の真岡女子高校関係者を含め、大デレゲーションを兵庫国体に送ることができそうです。正式発表があり次第特集します。候補選手はでっかい夢を持って、「日々是生々」と過ごしてください。

次回は【長月・白露】 テーマは「定石かひらめきか」です。
Vol.1 JUVY 創 設
Vol.2 理想の指導者とは
Vol.3 素晴らしき指導者
Vol.4 回顧・2005年
Vol.5 新春は箱根と共に
Vol.6 凛として颯爽と
Vol.7 眼のつけどころ
Vol.8 視点・感点
Vol.9 思い出に残る一言
Vol.10 新たなる旅立
Vol.11 JUVY誕生
Vol.12 春のスポーツシーズン到来
Vol.13 指導者としての実践力とは
Vol.14 ジュニアとシニア・その1
Vol.15 ジュニアとシニア・その2
Vol.16 わたしなりに言いたいことを…
Vol.17 「眼に見えない力」
Vol.18 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」
Vol.19 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」
Vol.20 「トーナメント・有限と無限の交差点」
Vol.21 「定石とひらめき」
Vol.22「合同練習会」
Vol.23「国民体育大会」

Circle-JUVY General Manager OKUZAWA Yasuo

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