Vol.18(2006.7.23)
【文月・大暑】 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」

昭和49年4月。大学を卒業し教員の道を選んだ私はいくつかの目標を立てました。
1) 毎年インターハイと国体に出場できる選手を育成すること。
2) 5年以内に県で総合優勝すること。
3) 5年以内に関東大会の優勝者を育成すること。
4) 10年以内に関東大会で総合優勝すること。
5) 10年以内に全国大会の優勝者を育成すること。
6) 10年以内に4×100mリレーと4×400mリレーで、自分がメンバーとして走った大学時代の最高記録に自分が指導した高校生チームが到達すること。
7) 指導者人生の中でインターハイ総合優勝をすること。
8) 指導者人生の中でオリンピック選手を育成すること。

 結果は、
1) 佐野高校時代の15年間は達成しましたが、転勤とともに記録はとだえました。
2) 4年目は1.5点差で、5年目は1点差で負け、優勝は6年目でした。
3) 4年目に三段跳で優勝しました。
4) 9年目に群馬県営敷島運動公園で優勝しました。
5) 9年目に国体100mで優勝しました。
6) 4×100mは9年目に、4×400mは10年目にそれぞれ達成しました。
7) まだ達成していません。
8) これは、関わりの問題もあるので、公表は差し控えます。

 あえて結果を記載しましたが、今から考えると、大学卒業当時の若い、浅い、教育者としての陸上競技指導とはかけ離れた目標だったなと、赤面の至りです。


それでは、今回はリラックスして思い出話に華を咲かせましょう。
私の体験したインターハイトップ8です。ただし、1〜8は順位ではありません。読者の皆さんがご自由に、興味ある順に並べ替えてください。

1) 「暑くて熱いインターハイ」
毎回暑いのですが、この大会が最も暑く感じました。総合入賞も狙っていたので余計に熱かったかのではないかと思います。混成競技スタート前の通告「只今のトラック上の温度38度、それでは混成競技400mの出発です。」榎本君(兵庫・小野高校)と金井君(群馬・沼田高校)の800m同着が印象的でした。大会終了後、姫路〜飛鳥と旅したことも忘れられません。
【1977年、岡山】

2) 「寒くて震えたインターハイ」
この時は、現地で綿入りのウインドブレーカーを購入しました。対称的にこの年10月開催の国体は沖縄で、その時は本当に暑く、夜眠れないくらいでした。このインターハイは我チームの参加者は頑張ったにもかかわらず、勝負になりませんでした。従って、熱くなれなかったため、暑さを感じることができなかったのかもしれません。
埼玉・松山高校が大活躍し総合優勝しましたが、この年の主将は前年のインターハイで松山高校の原島監督に依頼され、私が指名した選手でした。
【1987年、札幌】

3) 「敗北感を抱えて帰ったインターハイ」
関東大会は短距離6種目だけで総合優勝。日本選手権は高校生チームとしては最高順位の4×100m4位、高校ランクトップで乗り込むも、アクシデントから準決勝で落選。ショックを受けたチームを立て直せず、入賞は200m2位のみで佐野に帰ってきました。鹿児島で酒というと芋焼酎が出されることを初めて知りました。宿舎は城山観光ホテルで皇族と同じ宿舎と言うことで規制が厳しかったことを記憶しています。
【1982年、鹿児島】

4) 「効率良い入賞のインターハイ」
4×100mと4×400mのメンバー4人が全く同じ選手で、2位と3位入賞。その他、メンバーの一人が100mで8位、別の者が400mでも4位。総合でも4人で4位に入賞しました。
昨年の悔しい思いをはらしたようですが、両リレーの優勝を狙ってきただけに複雑な心境でした。
【1983年、名古屋】

5) 「全員が入賞のインターハイ」
4×100mと4×400mのメンバーが全く異なるチームで両種目4位入賞。昨年とは全く違ったやり方が功を奏しました。
【1984年、秋田】

6) 「地区大会の順位を上まわったインターハイ」
関東大会の4×400mリレーは、前を走るチームがバトンを落としたため、お情けの6位入賞。しかし、全国大会では、驚異の5秒記録更新、何と4位入賞。農大二高の不破君がロサンゼルスオリンピックに出場のため、インターハイに参加しなかったためか、スプリントは気の抜けたビールを飲んでいるようでした。
【1984年、秋田】

7) 「インターハイの順位をその後の競技生活における全国大会で上まわった選手」

100m
新里敏幸 IH出場なし 日本学生5位(サンキスト国際室内60m日本代表)
栗原浩司 IH準決勝 日本学生優勝・他(オリンピック・他日本代表)
大野功二 IH準決勝 全日本実業団2位・他 (ユニバシアード・他日本代表)
斎藤仁志 IH出場なし 日本学生6位 ※現役競技者

200m
大野功二 IH7位 日本選抜2位・他 (アジア選手権2位)
斎藤仁志 IH予選 日本選手権5位・他 ※現役競技者

3000mSC
網雅彦 IH予選 全日本実業団2位・他

棒高跳
丸山怜史 IH予選 日本ジュニア選手権6位

三段跳
篠原修 IH出場なし 国体2位・他(シンガポールオープン優勝)

混成
須藤宏 IH8位 日本選手権2位・他(国際混成8位)

走高跳
奥澤幸子 IH3位 国体優勝・他(フィリピンオープン優勝)

敬称は略させていただきました。記載漏れの方にはお詫び申し上げます。なお、本Circleの顧問的存在の青戸選手は西浜中学時代全日本中学100m優勝、中京大学職員として日本選手権100m優勝がありますが、和歌山工業高校〜中京大学時代にかけて、国体の優勝はあるものの、インターハイとインカレの優勝は無縁でありました。

8) 「番外編・インターハイJUVY面白エピソード」

@「帰ったら飯がない」
1983年、名古屋。4×100mリレーで2位入賞した後、表彰式を終え宿舎(割烹旅館「松岡」)に戻ると、夕飯が無い。栃木の監督が夕飯を食べないチームがいると勝手に判断し、我々のおかずをつまみに、別室で酩酊していました。板長が激怒し、その後、我々の私設応援団になってくれました。特別食を作ってくださり、大きな部屋で伸び伸びやるようにと、部屋まで変えてくれました。

A「選手はどこに行った」
1984年の秋田では、窓も冷房も無い部屋に入れられた選手は、いつの間にか物干し場に上がり、布団を並べ、夜空を仰いで堂々と寝ていました。朝練習のため、部屋に選手を起こしに行った私は選手が一人もいないことにビックリし、あわてて玄関を出ると物干し場から佐野高校の生徒が手を振っていました。何とたくましかったことか。

B「インターハイ全員参加」
今年の3年生の短・跳・投部員はマネジャーを含め全員がインターハイに駒を進めることができましたが、1979年の滋賀には全員が参加しました。とは言っても全員出場ではなく、夜行普通列車(知る人ぞ知る大垣行各駅停車)を利用し遠征したのです。宿舎は筑波大学の西藤先生にお世話になり三井寺の宿坊(大津)でした。インターハイ期間中に合宿をしたのです。私は宿舎の雄琴から合宿参加者の朝練に駆けつけ、戻って出場選手の面倒を見るといったハードなスケジュールをこなしました。JUVY財務担当の恵利川氏がマラソンの瀬古選手と走っている姿は印象的でした。

C「暑さ対策」
(!) リレーがインターハイ決勝の常連だった頃のメンバーは、7月の期末試験が終わると、昼休みの日光浴が晴れの日の日課になっていました。自主的に実施していたのは勿論のことです。上半身裸になり、弁当を食べ、簡単なドリルを行っていました。現在の紫外線対策を考えると、私などはヒヤッとしますが…。
(2) 1982年の鹿児島では、皇族の御宿泊の関係で宿舎内を歩けないため、練習以外は部屋で過ごす時間が多くなりました。体調を考慮してクーラーは消してあります。そこで約束したことは、「『暑い」と言ったら100円』でした。「あ」といった後気づき「あ(沈黙)そこに誰かがいる」などとごまかすのですが、これは無効になっていたようです。あの時のコインはどこに行ったのでしょうか。忘却の彼方です。私のビール代にはしていませんでした、念のため。
(3) 暑いと言えばサウナ。サウナの中で当時流行っていたトランプゲームの「ドボン」を行い、上がったらサウナから出られるという馬鹿なこともやっていたようです。高校生の発想は無限です。暑さ対策を遊びに変えてしまう自由な発想を現在の高校生も持っているのではないかと思うのですが…。ちなみに、サウナ室の中は乾燥しているだけに、余った水分がトランプに付着しトランプが互いにくっついてしまうという事をご存じですか。(何へーでしょうか?)そのため、上がっても「チョンボ」を取られる者が続出したことを報告しておきます。   


7月も大暑というのに、梅雨空はいっこうに変わりません。おそらく、インターハイ直前にカーッと太陽が照りつけるでしょう。自然には逆らわず、人間の弱さを自覚し、良い意味で自分の体をいたわりながら大会に出場することが大切です。

遠征で力を出すため、「普段の生活の衣・食・住に近づけること」はきわめて重要なことです。空調、寝具の硬さ、自分の時間の過ごし方、そして食事などがあります。何せ、全く自由と言っても過言ではないのです。遠征では競技場内より競技場外における行動に氣を使うことが必要です。自分を愛おしみましょう。 

結びになります。

大阪インターハイに出場する選手諸君。
インターハイのスタートラインに、インターハイの助走路に立てた時点で、君たちは自分を誇れる。
ここまでがすごかった。素晴らしい陸上競技をしてきた。
結果はおまけ。

絶対勝つ!とか、必ず自己新!などと思わずに、おまけは何が出てくるか、楽しみにしながら大阪に向かいましょう。
そして、行くときよりも爽やかな顔で自宅に戻りましょう。

次回は【葉月・立秋】 テーマは「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」です。
Vol.1 JUVY 創 設
Vol.2 理想の指導者とは
Vol.3 素晴らしき指導者
Vol.4 回顧・2005年
Vol.5 新春は箱根と共に
Vol.6 凛として颯爽と
Vol.7 眼のつけどころ
Vol.8 視点・感点
Vol.9 思い出に残る一言
Vol.10 新たなる旅立
Vol.11 JUVY誕生
Vol.12 春のスポーツシーズン到来
Vol.13 指導者としての実践力とは
Vol.14 ジュニアとシニア・その1
Vol.15 ジュニアとシニア・その2
Vol.16 わたしなりに言いたいことを…
Vol.17 「眼に見えない力」
Vol.18 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その1」
Vol.19 「朱夏の熱き闘い・インターハイ その2」
Vol.20 「トーナメント・有限と無限の交差点」
Vol.21 「定石とひらめき」
Vol.22「合同練習会」
Vol.23「国民体育大会」

Circle-JUVY General Manager OKUZAWA Yasuo

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